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人と竜の楔

 空は誰の頭上にも等しく広がっている。太陽の恵みも雨の慈悲を人間や獣も等しく受け取ることが許されている。空は誰のものでもない――というわけではなかった。
 彼の遥か頭上を一頭の竜が北へと飛んでいった。この世界の生態系の頂点に立つ竜の一族。圧倒的な強さと人間と並ぶ知能を持つ生物――大空の支配者。
 人類が竜の生態に関して知っていることは少ない。彼らには幾つかの種族がある。前足を持たない翼竜タイプ。竜の一族はこのタイプが最も多く、強さの階級も一番下になる。弱いといっても人が勝つには十分な量の兵器と百人クラスの部隊を展開する必要がある。
 その上に位置するのが四足歩行する竜だ。空を飛ぶ能力が翼竜タイプより優れているのはもちろん、地上での行動力も比べ物にならないうえ、戦闘力も高い。例え五百人規模の部隊でも勝てるかどうか分からない強さを誇る。
 そして竜の一族の頂点が直立歩行するタイプの竜だ。四足歩行タイプより前足は小さいが、人類が確認している個体の体躯は四足歩行の倍近いサイズばかりだ。人語を理解するのは竜の一族全てに言えることだが、世界に複数ある神話の一部には人に言葉を授けたのはこの直立歩行する竜だという一節もある。
 また極東の国には翼を持たず、その姿は蛇に似た龍も存在するという。この場合、蛇がその龍に似たと言うべきだろうか。
 竜は人間より遥かに長い歴史を持つ生物だ。その寿命も短くて三百年。長い場合は数千、数万年とも言われている。それに比べれば人の歴史など短く、そして竜との戦いの歴史でもあった。
 竜は雑食だ。木の実や植物を好んで食べる個体もいれば、魚類を好む個体、肉食を主にする個体、人間を偏食する個体もいる。竜の中で人間を食べる個体が最も多い。理由は単純明快。数が多く、狩りが楽で、それなりに美味だから。
 武装し訓練を積んだ王都を守護する兵士ならまだしも、辺境の村や町に住む人間など竜にとっては放し飼いの家畜だ。好きなだけ食べてもまた勝手に増える。自分達で飼育する必要のない最高の食料。それが竜の一族の人間に対する認識だ。
 だがそれも数十年前までの話。文明を発達させた人類は竜に対抗するだけの力をつけ、自らを守るために戦争を仕掛けた。それが百年前の話。半世紀以上に渡る戦争に先に根を上げたのは竜の一族だった。戦うことに疲弊し、個体の多くが人間の到達できないような秘境に移り住んだ。一部の個体は今でも人の生活圏で生きているが昔のように好んで人を襲うことはない。別に人間しか食うものがないわけではない。野生生物でも十分に腹は満たされる。中には好戦的に人を襲う竜もいるが、往々にして人に狩られる。
 人は竜を殺すことだけに人生を捧げたドラゴンスレイヤーと呼ばれる者達がいる。竜から人々を守る為、大切な人を殺された復讐の為、名誉の為――理由は様々だが、たった一人で竜を討伐する強さを誇る人外の領域に達した戦士達。
 竜との戦争でドラゴンスレイヤーは生まれ、今でも竜を狩っている。自分達の平穏のために修羅となって。
 地上を進む彼は空を飛ぶ竜を眺めながらあれもいつかドラゴンスレイヤーに狩られ、鱗や角が市場に並ぶのかとぼんやり考えていた。それから視線を進行方向に戻す。周囲の風景が人の足ではありえない速度で後ろへと流れていく。
 「いい風だ」
 彼は革袋から木の実を取り出して口に運ぶ。甘酸っぱい味は春から梅雨の直前の短い時期だけ楽しめる味覚だ。もう一つ取り出し、それを口に運ばずに自分を乗せて走るものへと差し出す。
 「食べるか?」
 『いらん』
 彼を背中に乗せて走る竜が不機嫌を滲ませながら返した。美味しいのにと残念そうに漏らし、口に運び入れる。
 『グレンよ、本当にこの方角であっているのか?』
 「信用してないのかい、ザフィーア。信頼できる相手から得た確かな情報さ」
 グレンと呼ばれた人間の男は苦笑を漏らし、頭に巻いたターバンのズレを直す。ザフィーアと呼ばれた四足歩行タイプの竜はふんと鼻息を荒くし、苛立った様子だ。
 琥珀色の瞳、瞳と同じ色の真っ直ぐな角が左右に二本ずつ生え、鱗は青碧色に輝いている。翼は竜の中でも珍しい左右に二枚ずつ、巨体を飛行させるに足りる大きさを持っている。
ザフィーアは大の人間嫌いだ。伴侶だった竜をドラゴンスレイヤーに殺されているからだ。戦争中ならまだしもお互いに干渉を避けた今の時代に殺されたのだ。それも人が辿り着くだけでも苦労するような標高の高い山岳地帯でひっそり暮らしていたにも関わらず。
 ザフィーアは伴侶が殺されて以来、人間の生活圏に降りて人と戦ってきた。復讐の相手、炎のドラゴンスレイヤーを殺すために。
 グレンは竜が嫌いだった。彼の生まれ故郷は竜によって滅んでいる。生き残ったのは彼ひとりだ。目の前で焼かれる両親。食われる幼馴染。その光景は今での脳裏に焼きついている。
 そんな一人と一体が一緒にいるのには深い事情があった。グレンはトレジャーハンターを生業として古代文明の遺跡を探索してはそこに眠る古代の秘宝や秘具を見つけてはモノ好きの富豪相手に商売をしている。現在の文明が栄えるより何千年の昔に滅んだ文明があったらしい。現在より高度な文明を誇り、遺跡に眠る秘宝や秘具は現代の技術では再現もできず、また用途が不明なものも多い。一方で遺跡から発見された書物を解読し、用途や製造法が判明し、現代の生活に還元されている技術もある。
双方が出会ったのはそんな遺跡のひとつだった。ザフィーアが寝床にしていた深い森の中にある遺跡でグレンは秘具を発見したあと、偶然にもザフィーアと遭遇してしまう。
 グレンは襲い掛かってきたザフィーアへ反射的に秘具を投げつけてしまう。ガラスのような素材で作られたそれは見事に砕け散り、中から溢れ出した強烈な光が双方を包み込んだ。どちらも光に怯み、逃げることも襲い掛かることもできずに収まるのを待った。
 光が収まり、ザフィーアは逃げていないグレンに襲い掛かろうとしたがグレンの一言がザフィーアを止めた。
俺が死ねば、お前も死ぬ――と。
 幸か不幸か壊れた秘具は解析された書物に記されていた秘具のひとつで、秘具から溢れ出る光を浴びた者の生命を一体化する呪具だった。つまり、どちらかが死ねば、もう一人も死ぬ――単純だが恐ろしい呪術だった。
かつての文明で竜を効率よく殺す方法一つとして編み出された呪術と書物には記されていたとグレンは国立研究所の知り合いから聞いている。
グレンはその知り合いの研究員から依頼されてその呪具を探しにザフィーアのいた遺跡を訪れていた。その呪いの効果が双方を奇妙な運命へと導くことになる。
ザフィーアはグレンが嘘を吐いているとは思わなかった。グレンが口にした古代文明の存在とその恐ろしさは竜の一族にも伝わっているし、その当時から生きている高齢の個体もまだ存命だ。当時から生きている竜がその呪術によって多くの同胞が呆気なく殺されたと語ったのをザフィーアははっきりと覚えている。
この呪術の恐るべき点は種族を選ばないことにあった。同種はもちろん、人間と竜でも効果はあるし、竜と小動物や虫でも効果があった。呪具に小動物と小動物が死ぬ程度の爆弾を縛り付けて竜に投擲すればいい。呪具は竜に当たれば砕け散り、竜と小動物の生命を一体化する。その後、巻きつけた爆弾が爆発して小動物を爆殺した瞬間に竜も死ぬ。あまりにも強力な効果的な呪術は王家や貴族の権力争いでも乱用されるようになりやがて秘匿された危険な呪術だ。
危険な呪術だっただけに当然解呪の方法も編み出されている。その方法は今も何処かの遺跡で眠っている可能性が高い。かくして人間と竜は呪いを解くために行動を共にすることになった。

今グレン達は王都のある大陸の南に広がる広大な平野地帯の東にある遺跡にむかっている。知り合いの研究員――名をエノル。グレンとは長い付き合いの女研究員でグレンの情報源の一人だ。解呪の道具は数多く存在しているとエノルは言う。呪術の強さによってランクが異なり、エノルのもたらした情報の先にある解呪の道具はかなり強力な部類にはいるらしい。それならこの呪いも解除できるかもしれなかった。
しかし、グレン達のむかう先は見渡す平坦な草原だった。どこにも遺跡もその痕跡もなく、すでに一時間ほど走っている。ザフィーアは空から探した方が早いと提案するも、グレンが酔うからと却下している。
グレン達が遭遇した遺跡はこの大陸の西の方にあった。そこから人目の避けるルートで王都付近まで一週間。この平野まで五日間の時間をザフィーアはずっと走って移動してきた。人間の足では倍近い時間がかかる。背に人間を乗せるのは屈辱的だったが、一刻も早くこの呪いを解きたいザフィーアはグレンを背に乗せること渋々承諾した。グレンは高所恐怖症で飛ばれると酔うから走ってくれという申し出を、ザフィーアは無視して飛んでいたら背中の上で吐かれたのだ。人間の血で身体を汚すならまだいいが、吐瀉物で汚すのはプライドが許さなかった。すぐに川に降りて身体を丹念に洗い、それからは地上での移動を余儀なくされた。飛べばどちらも半分以下の時間で移動できる距離だった。
『何か目印になるものはないのか?』
「二時間前に抜けた森があっただろ、そこから五時の方角に五十キロほど」
『すでに五十キロ以上走っているから文句を言っているんだ』
声色は落ち着いているが、だからこそ迫力があった。もっとも何があろうとザフィーアはグレンを傷つけることはできない。脆い人間は爪で軽く撫でた程度でも死んでしまうことをザフィーアはよく知っていた。
それから三十分、周囲を走り回ったが収穫はなし。現在位置を測るために一度休憩することになった。ザフィーアは小川で水分を補給し、グレンは測定具を取り出して現在時刻と太陽の位置から現在位置を割り出す。大陸の地図を広げ、ザフィーアが覗き込む横で自分達の位置を指差す。
目印となる森林地帯から東南に六十キロの位置。この周囲に半径十キロほどはくまなく探した。一帯は丘すらない地平線が見えるような場所だ。元々、人の住まない土地でここにあるらしい遺跡は誰かが発見した遺跡ではなく、書物に存在が記されているに過ぎない遺跡。長い年月の中で崩壊してしまった可能性もある。
「う~~ん、当てが外れたか」
『その女、ぶっ殺してやろうか』
「王都を単独で攻め落とせるならご自由に」
嫌味たらしく笑ったグレンにザフィーアは悪態を漏らし、前足で地面を蹴った。軽くやっただけで地面は深く抉られ、竜の、ザフィーアの強大さを物語っていた。人類はその強大な相手と対等にやり合えるだけの力をつけたのだから大したものだとグレンな少し誇らしく思った。
グレン達はこの場所でキャンプをすることにした。ザフィーアが少し飛んで大型の肉食獣を狩ってきた。その際少しだけ周囲を探したがやはり遺跡らしいものは見当たらなかった。この平野では薪を集めることもできないので魔具のコンロを取り出した。魔法も戦いだけではなく、生活上でも多く活用されている。竜との戦争も、人間同士の争いもない現代では魔法を如何に日常生活で有効に活用するかの研究が進められている。
このコンロもそのひとつだ。魔力を用いた発火装置で辺境の村落にも普及している代物。グレンが持っているのは旅用の小型タイプ。トレジャーハンターとして世界中を旅する彼にとって必需品のひとつ。火をつけると日が落ちて薄暗かった周囲がパッと明るくなる。小川で汲んできた水を鍋に入れ、沸騰を待つ。
『人間はそのようなものに頼らなければ食事も出来ぬのか』
何度目かになる嫌味にグレンは苦笑を漏らした。いつもは無視をして食事を済ましたらすぐに寝るが、今日は少し話をしたくなった。
「人間にとって、いつでも火を起こせるこれや、王都や都市部を一日中照らす光を生み出す装置は文明の利器、自分達の英知の結晶で誇らしいものなんだけどな」
『そんなもの我々竜の一族には不要だ』
「俺達人間は弱いからな、こういうものを発明しないと生きていけないんだ」
『貴様らの先祖はそんなものなくても生きてきた。貴様らは強欲なのだ』
「欲深いことはいけないことなのか? 誰が決めた? 神か? 高貴な竜の一族様か?」
『……』
「人間は竜に比べたら欲深い生き物かもしれない。絶対的な捕食者がいたからな」
『強欲を我々の所為にするのか?』
「どうだろう、竜がいなかったらきっと人間同士で争って結局今と同じ文明があると思うよ」
『同種で争うなど、愚かな』
「……そうだな、人間はまだ幼い。竜のように種として幼年期を終えていないと俺は思っている」
『文明を築くのもまだ幼いからと言いたいのか?』
「幼いから弱いから、身を守る為に何かを生み出すんだ。幸い、人間にはそれだけの知恵があった。そのお陰で平和な生活を手に入れた」
お湯が沸き、大量の砂糖と粉末ミルクを入れたカップに注ぎ込む。スプーンで軽くかき混ぜ、口に運ぶ。
『平和? 我々竜を撃退したことがそれほど誇らしいか』
「……少なからず、人類にとって圧倒的な脅威は去った。今でも竜を恨んでいる人は多いし、ドラゴンスレイヤー達は日々竜を探して殺し回っている」
『貴様はどうなのだ? 我々が憎いか?』
グレンは答えずに栄養素だけ高い携帯食料を齧り、ミルクで流し込む。
「平和だから俺はトレジャーハンターみたいな酔狂なことをやって生きていける。まあ、こうなったのは本当に予想外のことだけど」
『竜にあったのは我が初めてなのか?』
「トレジャーハンターをやってからは何度か遭遇している。運よく逃げることができたけど」
炎を見つめるグレンの横顔をザフィーアの鋭い相貌が見つめる。今まで殺してきたどの人間とも違う臭いを鼻孔が感じ取っていた。グレンの年齢はどう見ても二十代半ばの若者。その年代の人間は竜との戦争を知らない。肉親を竜に殺されたことをグレンはザフィーアに話している。ザフィーアも伴侶がドラゴンスレイヤーに殺されたことを話している。
グレンにとって竜は憎く、恐怖の対象であるはずだ。しかし、そんな素振りを微塵も見せない。ザフィーアは人間に恐怖や怒りをむけられることはあった。それを恐れたことはない。だからこそ、自分に特別な感情をむけないグレンに得体の知れない嫌なものを感じていた。一刻も早くこの男から離れたい、そんな感情がザフィーアに芽生えつつあった。
食事を済ませたグレンはコンロをしまい、寝袋を広げる。これも魔力を帯びていて中の温度を一定以上に保つ機能を持っている。こんな場所でも快適に眠ることができる優れものだ。
「周囲の警戒よろしく頼んだよ。俺が襲われたらザフィーアも死んでしまうんだから」
『ふん、竜に襲いかかろうとする生き物など、貴様ら人間くらいだ。襲ってきたら食ってやるさ』
グレンは可笑しそうに笑い、静かに目を閉じた。数分後にはザフィーアの耳に寝息が届いてきた。それを確認したザフィーアも目を閉じ、身体を休めることにした。明日はもう少し周囲を捜索し、遺跡が見つからなければ王都へと帰る予定だ。
こんな奇妙な生活はいつまで続くのか、ザフィーアはため息を漏らした。

 日が昇るより前にグレンは目を覚ました。欠伸を漏らすこともなく、テキパキと寝袋を畳んでコンロで湯を沸かす。夜と同じ食事を済まし、軽い運動をして準備を完了する。
 「さあ、今日も一日頑張って行こうか」
 『言われるまでもない』
 グレンはザフィーアの背に飛び乗り、ザフィーアは大地を揺るがすような咆哮をあげてから走り出す。そのまままっすぐ東にむかって走り出した。
 エノルの情報を頼りに森林から五十キロ走った一帯を探し回ったが、今日はその先を調べることにした。ザフィーアの背の上でグレンは地図を開き、じっと見つめる。
 「ザフィーア、十分ほど走ったら南に進路を変えてくれ。そのまま一時間以内に何もなかったら引き返そう」
 『その行動の根拠は?』
 「王都の地質学者が言うにはこの南の一帯は古代文明があった時期に数十キロほど、南にずれているらしい」
 『数十キロずれた? どんな規模の地殻変動だそりゃ』
 「とても大規模な地震だったに違いない。それが古代文明消滅の原因かは知らないけど、この土地は一時、大陸から切り離された土地だったことが地質調査で明らかになっている。調査では千五百年前くらいに二つを分かっていた海峡が海底火山の噴火よって消滅したらしい」
 『書物はその大規模な地殻変動以前に記されたものだった』
 「そうだ。でも森林地帯は切り離された南の大地にあった。だから遺跡との距離は変わっていないと思ったけど、地殻変動の際に、南の大地も大きく形を変えた可能性もある」
 『だから書物の位置と違っていたと』
 「遺跡は元の位置からほぼ真南にズレた可能性を追おうと思う」
 『そうと決まれば少し速度を上げるぞ』
 ザフィーアはもう一度咆哮を上げ、速度を上げた。グレンは頬を撫でる風の心地よさに頬を緩めながらズレたターバンを直し、流れていく景色を見つめた。
 ほどなくしてグレンの予想が当たっていたことを告げるものが姿を現した。キャンプをした小川から四十キロあたりか。平坦だった土地は緩やかな高低差を持つようになり、小高い丘に隠れるようにして小さな祠のような建物をふたつの双眸が捉えた。
 『あれか?』
 「おそらく」
 ザフィーアは建物の前で止まり、グレンが背中から降りる。
 「聞いていた話より小さい」
 『上の階は壊れたんじゃないのか?』
 「てっぺんのあれはどう見ても屋根だ」
 『人間の建物のことなど我が知るか』
 「……まさか」
 グレンが建物に駆け寄り、窓のような入口に近づく。そしてそれが正に窓であったことを知る。
 「やっぱりだ。建物が地中に埋まっている」
 『建物が、埋まっている?』
 「沈んだか、それとも埋もれたかは判断できないけど、遺跡は地中にある」
 『解呪の道具とやらは無事なのか?』
 「行ってみないとわからない」
 グレンはすぐに建物の中に入る準備を始める。
 『我は入れそうにないな』
 遺跡への唯一の侵入路である窓はザフィーアの頭すら入りそうにない。人間であるグレンですら入るのがやっとなサイズだ。
 「俺が生き埋めにならないことを願いながら留守番でもしていてくれ。」
 言い方が気に入らなかったがザフィーアは思わず息を呑んだ。グレンが生き埋めになればザフィーアも死ぬ。喉元に強靭な鱗すら斬り裂く剣を当てられた気分だった。ザフィーアは千年ほど生きている竜だ。人間との戦争も経験してきたが死を感じるような経験は一度もなかった。それが呪術で脆い人間と生命を一体化され、死を身近に感じている。グレンはトレジャーハンターとして世界各地を旅し、大型の肉食獣と戦った経験もあると言っていたが所詮は人間。ちょっとのことで死ぬ。その人間が死んだら自分も死ぬ。
 知らないうちに呼吸が荒くなっているのをザフィーアは自覚した。死の恐怖というのがこれほどまでに冷静さを失わせるものだとは思わなかった。同時に思い至る。人間はこの恐怖を抱え、或いは打ち勝ち、我々竜と戦っているのだと。
 それは自分達が持たぬ強さなのだとザフィーアは感じていた。自分より強大な存在に挑む。それがどれほど勇敢なことか。理解はできても抱くことはできない。何故なら竜はこの世界で最も強い一族。自分達を脅かすものは存在しない。人との戦いで死んでいった竜たちも自分が人間に殺されるなど微塵も思わないまま死んでいったのだから。
 グレンが遺跡の中に入って三十分が経過していた。それほど大きな遺跡なのか、それとも中が崩れていて進みづらいのか、解呪の道具を探すのに手間取っているのか。時間が経過するほど、ザフィーアの中で不安が大きくなっていく。いないはずの自分達より強大な何かに追われるような感覚。嫌いなはずの人間なのに、一刻も早く姿を見たくてたまらなかった。それを声に出すことは絶対にしない。態度に出ないようにも努める。周囲に誰もいなくても竜の一族としての誇りがそうさせた。
 さらに三十分。届かない可能性が高いが声をかけてみようかと思い始めた頃、グレンが遺跡の中から姿を現した。衣服は泥や砂で汚れ、顔には擦り傷もあった。
 「やれやれ、まさか浸水しているとは思わなかった」
 『それで解呪の道具はあったのか?』
 心配していたという態度は一切出さず、結果だけを淡々と問う。グレンはニッと笑うとウエストバックから筒状の金属物を取り出した。
 「エノルから聞いた形とも一致する。文明の後期に作られた解呪道具だ。この筒、サイズの割にかなり重い。きっと比重の大きい金属か、合金が用いられているんだ。解呪の魔力は比重の重い金属と相性がいいって最近の研究で明らかになったみたいだけど、これはそれを裏付ける根拠にもなるな。この文字見てくれ。文明中期に東方の国で多用された魔法文字だ。作られたのは後期なのに用いられた魔法文字は中期のもの。それだけこの魔法文字が強力だったのか、後期は魔法文字の発展が少なかったのか。そもそも魔法文字の起源は」
 『貴様のうんちくはどうでもいい』
 解呪の道具を持ちながら目を輝かせ、まるで少年のように語る姿はトレジャーハンターの性か。止めないといつまでも話していそうなので話はあとで聞くと言い、呪いをさっさと解くことを提案する。
 「なあ、呪いを解いたらザフィーアは俺を食うのか?」
 『今更食おうなどとは思わん。ここで別れるだけだ』
 「……せめて人の生活圏まで連れていってくれませんかね? 人の足だと二週間はかかる」
 『飛んでもいいなら乗せてやる。ただし、吐いたら振り落とす。高度数百メートルだ。ひき肉が出来上がるな?』
 「努力する」
 グレンは筒の蓋を開ける。中は青色に発光する水で満たされ、これを振りまくと範囲内の呪いを解除する。中身を勢いよく振りまくと発光がたちまち大きくなり、あの時と同じようにグレン達を包み込む。
 発光は次第に弱くなり、消えた時には変わらぬ状態のグレンとザフィーアが佇んでいた。外見的な変化はない、それは当たり前だ。問題の呪いはどうなったのか。グレン達は顔を見合わせ、同時に深いため息を漏らした。
 「どうやら呪いに対して道具のランクが足らなかったみたいだ」
 『感覚でわかるものなのだな』
 グレンはその場に背中から倒れ、大きく息を吐いて空を眺めた。結局苦労して辿り着いた遺跡で呪いは解けなかった。まだ振り出しに戻った。
 「エノルに情報を聞きに行かないと」
 『まだ地面を走る生活が続くのか』
 「悪くないだろ?」
 『ほざけ』
 グレンが笑いながら立ち上がり、ザフィーアの背に乗ろうとした時だった。竜の咆哮が鼓膜を震わせた。それはザフィーアのものではなく、咆哮は丘のむこうから聞こえた。グレンは腰に差した短剣を抜き、姿勢を低くして構える。ザフィーアは特に警戒した様子もなく、咆哮の主が現れるのも待つ。
 丘の向こうから地面すれすれを飛んで翼竜タイプの赤褐色の鱗の竜が姿を現した。グレン達の百メートルほど前で地面に降り立ち、ザフィーアが四足歩行タイプの竜だと認めると頭を下げながら目の前まで歩いてきた。
 『人も住まない、獣も少ない辺境でザフィーア様にお会いできるとは光栄です』
 グレンはこの時、竜にもある程度の階級が存在することを知った。おそらく直立歩行する竜種をトップに逆三角形の階級社会が出来上がっていると勝手に想像する。赤褐色の竜はグレンの存在を認めると頭を上げ、ザフィーアに問う。
 「人間嫌いの貴方様がどういう風の吹き回しですか? 人間と一緒にいるなどと知れれば笑われますよ」
 『これには深い事情があるのだ』
 ザフィーアは事情を説明すると赤い竜は今までの慇懃な態度を一変させた。しゃがれた笑い声をあげるとザフィーアへ乱暴に顔を近づけた。
 『ザフィーア様とあろうものが情けないな、傑作だ』
 『今すぐ地面に伏せれば許してやる』
 態度に出してはないが、ザフィーアからほのかな怒気をグレンは感じた。近くで二体の竜が暴れまわり、巻き込まれたらタダでは済まない。グレンはすぐに動けるよう、神経を鋭敏に研ぎ澄ます。
 『口には気をつけろよ、その人間殺されてえのか?』
 グレンはザフィーアの左後ろ脇に立っている。赤い竜が襲いかかってきてもザフィーアなら反応できるだろう。それともそれを上回る自信が赤い竜にはあるのか。ザフィーアはふんと鼻息を漏らし、グレンへ背中に乗るよう促す。相手にするだけ無駄だと判断したのだろう。好戦的な赤い竜に比べてザフィーアの対応は酷く冷静だった。
 その態度が気に入らなかったのか、赤い竜は背に乗ろうとするグレンへと鋭い棘の生えた尾を振り回した。グレンは素早く反応し背後に跳んだ。尾はグレンに当たらなかった場合、ザフィーアのわき腹を直撃する軌道だったが、尾がザフィーアの身体を傷つけることはなかった。
 ザフィーアの前足が赤い竜の尾を根本付近で掴み、鋭い爪が鱗を砕いて肉に食い込んでいた。
 『どうやら死にたいらしいな』
 ドスの利いた声に赤い竜は高らかと笑う。臨戦態勢に入ったザフィーアをこれっぽっちも恐れていない様子だった。笑いを漏らす口がにわかに熱と光を帯びる。口から火がちらつき、低い咆哮と共に灼熱の火球が口から吐き出された。
 「ザフィーア!!」
 火球はザフィーアの頭部に直撃する。その衝撃で尾を掴んでいた力が緩み、赤い竜は拘束から逃れ、身体を一回転させた。遠心力の利いた尾の攻撃がザフィーアを襲う。だが棘がザフィーアの肉を傷つけることはなかった。尾の重さ自体大したことないうえに、体躯の大きさは圧倒的にザフィーアが大きい。鱗に小さな引っかき傷がついた程度でダメージは皆無だった。火球も分厚い頭殻に防がれダメージを与えていない。
 『はっは!! 流石なザフィーア様だな、この程度じゃびくともしませんか』
 ザフィーアが攻撃していなくても圧倒的な力の差を見せつけられたにも赤い竜は楽しそうだった。竜の巨躯からは想像もできない軽い身のこなしで後方に十数メートル跳んだ。バランスを取るために羽ばたかせた翼が巻き起こす風にグレンのターバンがズレる。慌ててターバンを直し、ザフィーアの顔付近に移動する。
 「なんだ、竜同士でも争うことはあるんだな」
『ほざいている暇があったら離れていろ。お前を巻き込んだら、自殺したのと一緒だ、死んでも死に切れん』
グレンは大人しく従い、赤い竜から目を離さずにザフィーアの尾が見える位置まで下がった。竜同士の争いを見たことのある人間はほとんどいない。文献や現代の研究書にも一切記されていない。グレンはその様子をしっかりと記録し、エノルに報告すると誓った。
竜同士がどんな戦いをするのか大変興味をそそられた。先手は赤い竜だった。太い脚で地面を蹴り、ザフィーアへと突進する。鋭い牙が並ぶ口を大きく開けて、首を狙うようだ。
ザフィーアは四肢で地面を蹴って噛みつきをかわし、赤い竜へとその巨体をぶつける。体重の差がそのまま威力に直結する。赤い竜の身体は大きく吹き飛び、ギリギリで踏ん張って転倒だけは回避した。そこにザフィーアの追撃が襲いかかった。頭部を懐に潜り込ませ、そのまま上体を起こす。
 赤い竜が宙を舞った。どうやったらあの巨体がそんな軽々と宙を舞うのか、グレンは背筋に冷たいものを感じながらその攻防を見つめていた。赤い竜は宙でなんとか体勢を立て直そうと翼を動かすが、ザフィーアの前足が翼膜を掴み、地面へと叩き落とした。
 赤い竜の口から苦悶が漏れる。翼膜の一部が無残に破れた。その翼に巨躯がのしかかる。骨が砕ける音がグレンの耳にも届いた。悲痛な咆哮が漏れ、勝負は決した。戦う前から決まっていた勝敗。翼竜と四足歩行タイプの竜の強さに大きな差があるのはグレンもよく知っている。それなにどうして赤い竜はザフィーアを挑発し、戦いを挑んだのだろうか。
ザフィーアは赤い竜に小さな声で何かを伝え、背をむける。あれだけ無礼を前にザフィーアは赤い竜を殺すことはしなかった。グレンはそれが不思議だった。
「……放って置いていいのか?」
『あれでも竜の端くれだ。死にはしない』
「何か、伝えたみたいだったけど」
『貴様には関係のないことだ』
背中に乗るように促され、グレンは定位置に腰を下ろす。最後に地に伏したままの赤い竜を一瞥する。
「あれは?」
その背後で何かが動いた。とてもおぞましい何かが。只ならぬ気配をザフィーアも感じ取ったのか、首だけ赤い竜にむける。
と、グレン達の目の前で鮮血が舞った。耳をつんざく咆哮が大地を揺るがし、日光を浴びた鋭い大剣が赤い竜の胴を薙ぐ。
「ドラゴンスレイヤー……」
大剣が赤い竜の首を斬り落とした。大地が赤く染まり、大剣を持つ者の靴を赤く染めていく。既に真っ赤だった靴は更に血を吸う。血をもっと求めるように。
人の身の丈ほどある大剣を軽々と肩に担ぎ、ドラゴンスレイヤーはザフィーアへと足を進める。黒い竜の鱗で作ったスケイルアーマーを纏い、その上には竜の翼膜で作ったマントを羽織っている。瞳は黒く濁り生気がまるで感じられなかった。
『あれがドラゴンスレイヤーか。確かにおぞましい気を感じるな』
先ほどまでと違い、ザフィーアからは爛々とした闘気が滲み出ていた。このままでは殺し合いが始まる――グレンはザフィーアから降りるとドラゴンスレイヤーの前に立ちはだかった。
「斬首のドラゴンスレイヤー、アリア……止まってくれ」
ドラゴンスレイヤーにはそのほとんどに二つ名がある。ザフィーアの伴侶を殺した炎のドラゴンスレイヤーは文字通り炎の魔法を得意としたドラゴンスレイヤーだった。目の前にいる女ドラゴンスレイヤーアリアの二つ名は斬首。馬鹿でかい大剣で竜の首を易々と斬り落とす姿から名付けられた。
グレンの存在に気がついたアリアは足を止める。一瞬だけ人間とドラゴンが一緒にいることに不思議がる仕草をしたが、竜に対する殺意は全く消えない。グレンは自分とこの竜が置かれている状況を説明する。だからどうかこの場は見逃してくれと嘆願する。
アリアはグレンが話し終わるまではその場を動かなかった。だが、話が終わると歩みを再開した。グレンは舌打ちをし、駄目かと小さく漏らす。こうなることはわかっていたが、万が一に賭けたかった。
ドラゴンスレイヤーに竜を見逃せというのは無理な話だ。ドラゴンスレイヤーは一人の例外もなく狂っているから。
生身の人間は単独で竜に勝てるなどありえない。ドラゴンスレイヤーはただの人間ではない。その身に憎むべき相手の血を宿す狂気の戦士だ。竜の血は未知の成分を多く含み、生物の身体能力を強化する効果があった。もっとも、人間には劇薬で常人なら一日を待たずに廃人になる。ドラゴンスレイヤーの素質がある者でも魔力で肉体を強化しなければ長くは耐えられない。竜の血と魔力に精神は蝕まれ、怒りや憎しみを増幅させ竜を殺すことだけしか考えられない状態へと堕ちていく。言語障害や記憶障害、聴覚や視覚を失うなど、何かしらの障害も抱えている。
そんな状態の相手に対話を求めること自体間違っている。グレン達にできることはドラゴンスレイヤーを殺すか逃げること。ザフィーアは前者を選択するだろうが、グレンにはそれを許容することはできなかった。
「ザフィーア、逃げるぞ」
『ふざけるな、竜が人に背中を見せるなどありえない』
「呪いが解けた後にお前がどこでどれだけ人間を食おうが殺そうが知ったことではないけどな、俺と一緒にいる間は人間を殺させない、絶対に」 
双方の意見が真っ向から対立する。そうしている間にもアリアはザフィーアへと近づく。お互いが間合いに入れば、戦いになるだろう。それだけは避けなくてはならない。グレンは短剣を取り出すと切っ先を自分の喉元に突きつけた。
「退かないなら、俺が取る選択はひとつだ」
自らを殺して、お前も殺す。ザフィーアはグレンを睨む。その眼は本気だった。ドラゴンスレイヤーへと牙をむければグレンは躊躇なく喉を斬り裂くことをザフィーアは理解した。
『……乗れ』
グレンは即座に背に飛び乗り、ザフィーアは地面を蹴る。同時にアリアも地面を蹴ってグレン達へと迫った。
『飛ぶぞ』
ザフィーアは返事を待たずに翼を羽ばたかせ大空へと飛ぶ。地上は一瞬で遠くなり、グレンは酷い眩暈と吐き気に襲われた。
『少しだけ我慢しろ!!』
背中で吐かれた記憶が蘇り、ザフィーアは大声で叫ぶ。アリアとの距離は瞬く間に離れていく。強化された肉体とはいえ竜の飛行速度に追いつけるはずもなく、アリアは足を止めて大剣を担ぐ。と、全力でそれを投げた。
「避けろ!!」
竜の飛翔速度を上回る速度で飛来する大剣。グレンの叫びにザフィーアは旋回するも大剣の切っ先が鱗を砕き、尾の肉を少しだけ裂いた。鋭い痛みにザフィーアは歯を食い縛り、その場で滞空し、地上で睨んでくるアリアを睨みつけた。
大剣は数百メートル先で勢いを失い、地上に落ちていった。ザフィーアの尾からはわずかに血が垂れ、ポタリと地上に落ちていく。
『女……そのツラ覚えたぞ、必ず決着をつけるぞ』
ザフィーアは大気を揺るがす咆哮を残し、この草原から飛び去った。残されたアリアは投げた大剣を回収し、切っ先についたザフィーアの血を舐めとる。
「……グ、レン」
大剣を背中に納め、アリアも草原を去った。

アリアから十分に離れたのを確認し地上に降り立った直後、グレンは吐いた。間一髪ザフィーアの背中から降りたが吐瀉物のきつい臭いにザフィーアは顔をしかめる。
『低空で飛行しても駄目なのか?』
「人間にとってニ、三十メートルの高度は低空とは言わない」
水を飲み、口の中をすすぎ、息を整えるグレンがため息を吐く。
『仮に、解呪の秘具がこの大陸になかったらどうするつもりだ?』
「別々に移動して、合流するしかないんじゃないか?」
『手間のかかる方法だ』
ザフィーアはぶつぶつと文句を漏らし、その顔をグレンがじっと見つめた。
『なんだ?』
「どうして、あの竜を殺さなかった? プライドの高い竜が格下の竜に馬鹿にされてあれだけで済ますなんて」
ザフィーアはしばらく沈黙し、
『竜同士で争うことは禁じられている。上の者がそれを守らないでどうする?』
「あんなことは日常茶飯事なのか?」
『あんな馬鹿は稀にしかいない。血の気の多い若い竜によくみられる態度だ。ガキの挑発に乗るほど短気じゃない』
「人間相手には随分短期みたいだけどな」
グレンが笑うとザフィーアはギロリと睨みつけるがグレンに全く怯んだ様子はない。殺されることがないとわかっていてもこんな至近距離で竜に睨まれて平然としているこの男にザフィーアは驚嘆と小さな懐疑を覚えた。
『グレン、貴様は本当にただのトレジャーハンターなのか?』
「竜相手に嘘を吐いてどうするんだ」
『貴様は人間にしては胆が据わりすぎている。それにドラゴンスレイヤーのことや古代文明のこと、我々竜の一族に関しての知識にもやたら詳しい』
グレンは黙ったまま涼しい顔を崩さず、ザフィーアを見つめる。
『貴様は本当にただのトレジャーハンターか?』
「職業柄、多くの土地を訪れ、多くの人間と関わるから色々知っているだけだ。それにこれくらいの知識は本を読めば一般人でも得られる範疇だ」
グレンの言ったことが嘘なのか、本当なのか、ザフィーアには判断はつかない。これ以上の押し問答は無意味と悟ったザフィーアは背中に乗るように促す。グレンは一度王都に戻り、また遺跡の情報を集めてこないといけない。こんな場所で油を売っている暇はない。
グレンはアリアの大剣で斬れたザフィーアの尾を一瞥する。物理的なダメージは大したことないだろう。問題は相手がドラゴンスレイヤーで大剣に血が付着してしまったことにあった。
「これから大変だな」
『どういう意味だ?』
「ドラゴンスレイヤーは味を覚えた龍の気配を辿ることができる。例え別の大陸にいても。ザフィーアはアリアの標的にされたってことだ」
『味……我の血を舐めたのか』
「ドラゴンスレイヤーは執念深い。アリアはこれからお前を倒すことに心血を注ぐ。移動中ばったり遭遇しないように気をつけないといけない」
『殺してしまえば、その心配もないだろう』
「殺させないと言っただろう。それにザフィーアが勝てる保証もない」
その一言にザフィーアが怒りをあらわにする。グレンに顔を近づけ、鋭い牙を剥き出しにする。
『貴様は我が人間如きに負けると言いたいのか』
「アリアはドラゴンスレイヤーの中でも一流だ。直立歩行の竜を一体殺している。それもドラゴンスレイヤーになって間もない頃に。あの大剣や鎧はその竜の素材を加工したものだ」
『ふん、どうせ年老いた竜だったのだろう。我々とて老いには勝てない』
自分より格上の竜が殺されたと言われても怯む様子は一切ない。それどころかより一層闘志を滾らせているようだった。
『いいだろう。呪いが解けたらいの一番にあの女を殺して食らってやる』
ニヤリと笑うザフィーアにグレンは何も言わなかった。殺し殺される。それが竜とドラゴンスレイヤーの宿命。そこに自分が足を踏み入れてはならないことくらいわきまえていた。ドラゴンスレイヤーにとって、竜を殺すことが唯一に救いなのを知っているから。

ザフィーアが王都までグレンを乗せていくわけにはいかない。王都から五キロほど離れた大型の肉食動物が多く生息する広大な森が二人の合流地点となる。グレンは徒歩で王都まで帰ってきた。堀と城壁に囲まれた城塞都市。生まれ故郷を焼かれてからはこの都市を拠点にして多くの地を旅してきた。
グレンはエノルの元に行く前に一度家に帰ることにした。レンガ造りの、何度も無理矢理増築した家屋が立ち並ぶ低所得者の路地のひとつ。慣れない者が足を踏み入れればたちまち迷子になる迷路と化した区画。子供たちにとっては最高の遊び場でもある。グレンは懐から鍵を取り出し、扉を開ける。三か月ほど帰っていなかったが、埃は積もっていない。グレンは窓を開けて街並みを眺めながら、大きく息を吐く。
ワンルームの小さな部屋。トイレはあるがシャワールームはない。旅の前は準備でぐちゃぐちゃになる部屋も今は綺麗に片付いている。
「相変わらず、世話好きな奴だ」
グレンは苦笑を漏らし、エノルのいる国立研究所にむかう。王城と併設されたその研究所は毎日多くの研究員が過去の遺物や魔法に関しての研究を行っている。外部者で施設内に入れる人間はそう多くない。
グレンは入口で馴染みの受付に軽く挨拶をし、慣れた足取りで施設内を進む。エノルの名札の掲げられた扉の前に辿り着き、ノックをして室内に入る。綺麗に整理整頓された室内。魔法によって温度と湿度が調整された室内には多くの古文書が置かれている。
古文書を睨んでいたエノルが顔を上げ、グレンを認めると笑顔を浮かべる。メガネを机の上に置き、大きく背伸びをする。
「サボる口実を探していたところよ」
「それはいいタイミングで来たな」
グレンも笑みを浮かべ、二人は再会の握手を交わす。
「それで、首尾は?」
「駄目だった。もっと高ランクの呪具じゃないと効果がないみたいだ」
「そう」
エノルには事情を説明してある。グレンにとって数少ない友人である彼女は協力を快諾してくれた。これが別の研究員に知れたらグレンはただじゃすまない。いや、ただじゃすまないのはザフィーアの方だ。グレンを殺すと脅せばザフィーアは抵抗できなくなる。そうなれば拘束され身体の隅々まで研究されるだろう。竜の脅威が薄れたいま、生きた竜は貴重な研究材料でしかない。それも四足歩行タイプの竜なら垂涎の的だろう。これは二人だけの秘密だ。
「貴方が帰ってくる間にいくつかの情報を解読しておいたわ」
「苦労をかける」
「気にしなくていいわ」
エノルに渡された資料にはグレンが必要としない遺跡の情報も含まれていた。
「これは友人としての忠告よ。貴方には数えきれない功績がある。国家調査員になる前もなった後も。だからトレジャーハンターとして経費を使うことも、遺産を金持ち相手に取引することも許されている。調査外での発見も多いから大目に見られている。でもみんなが貴方の行動を支持しているわけじゃないわ」
「心配ないさ。仕事はこなす」
エノルの心配をよそにグレンは他人の目など知ったことかという態度だ。エノルはため息を漏らし、何処か破滅願望のある友人を見つめる。エノルは村を滅ぼされ、王都に移り住んできてからの付き合いだ。もう十数年になる。グレンの心の傷は深い。今はこうやって笑顔を浮かべ何ともない風を装っているが、数年前まではとても見るに堪えない状態だった。明日死んでもかまわないと、声にならない叫びを毎日あげていた。
「そうだ、アリアに会ったよ。元気そうだった」
エノルの表情が曇る。アリアはエノルの昔馴染みだ、グレンより付き合いが長い。
「ザフィーアがアリアの標的にされた」
「……アリアを殺すの?」
エノルの脳裏に最悪の可能性が浮かぶ。ザフィーアが死ねば、グレンも死ぬ。アリアの手によってザフィーアが殺されるのを前にした時、グレンはどうするのだろうか。エノルは想像もしたくなかった。友人同士が殺し合う姿など考えるだけで胸が張り裂けそうだった。
「最善を尽くす、それだけだ」
グレンの笑顔は冷たくエノルはわずかな恐怖を覚えた。国家調査員になって数年。グレンの中に潜む闇はまだ消えていないことをエノルは悟った。
研究所を後にし、家に帰って身支度を整えると日が沈まぬ内に王都を出てザフィーアと合流した。
『いいのか? 一日くらいベッドとやらで寝てもよかったのだぞ』
「いらない気づかいだ。地面で寝るのは慣れている」
合流し、新しい目的地を目指しながらザフィーアにしては珍しい気づかいをみせた。だがグレンはそれを一蹴する。
ザフィーアが目に見えて不機嫌になり、グレンは可笑しそうに笑う。ザフィーアが不機嫌になったことではない。種族が違い、鱗で覆われた顔の機微を感じ取れる自分が可笑しいのだ。
かつては殺し合い、今はお互いが極力関わらないように生きている竜と人間がこうやって共に過ごしている。これは悪魔の悪戯か、神の試練か。
「俺達がこうしているのは運命なのかもしれないな」
ポツリと漏らすグレンにザフィーアは怪訝な顔をする。
「俺達は長いこと殺し合ってきた。お互い知性があり、言葉を交わすこともできるのに」
『くだらん。貴様は家畜と言葉を交わせたら、奴らを食わなくなるというのか?』
「すぐには無理かもしれない。でもいつか共に生きることができるかもしれない」
グレンの表情は穏やかで自分が言っていることが必ず実現すると思っている顔だった。
『人間と竜もいつか共に生きられると?』
「もしかしたら俺達が出会い、呪いにかかったのはその為にあるんじゃないかって、思うんだ。この旅はいつまで続くかわからない。でも終わった時、きっと何かが変わるような気がするんだ」
『……我もお前も、所詮末端の存在だ。そんな二人が和解し、仲良くなったとしても大局に影響は与えない』
「なんだ、俺とは仲良くしてくれるのか?」
ニヤニヤと笑い、背中を撫でるグレン。ザフィーアは自分の発言にハッとし、首を横に振る。
『忘れろ』
「冷たいことを言うなよ、相棒」
『なにが相棒だ、そんなふうに我を呼ぶな』
「いいじゃないか、呪いが解けるまで一心同体みたいな状態なんだ。それまではそう呼ばせてくれよ相棒。さあ、お前も俺をそう呼んでくれ」
嬉しそうに背中をバンバン叩くグレンを鬱陶しい思いながら、ザフィーアは一刻も早く呪いを解こうと改めて誓った。