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趙氏春秋

 ちょうとんは、不可思議な夢を見た。
 あまりにも気になったので、占い師にみてもらうと、

「絶えて、後よし」

という不吉な卦が出た。
 そこで趙盾は、宰相の地位を返上し、趙氏の当主の地位も異腹弟のちょうかつに譲ってしまった。
 それを自身の一生の償いとしたのか、趙盾はその後、すぐに亡くなった。
 中国のしゅんじゅう時代――百を越える諸侯が、たった七つになるまで争いあった戦乱の時代。その中でも、しんと言われる二大強国の一つであるしんを安定に導いた名宰相、趙盾の最期であった。


 月の綺麗な夜だった。
ていえい、まだ動けるか?」
「ああ、お前の方はどうだ?」
「私は、もう少し休まねば無理そうだ」
 二人とも、地に伏して、夜空を見上げながらの会話だった。
「なら、もう少し付き合おう」
 程嬰はもう起き上がることができたが、横になったままで話し始めた。
「こんな風に、月を見るのは久しぶりだ」
 あまり裕福な家ではなかった程嬰は、成人を迎えるまで、武術の稽古しかしてこなかった。おかげで一角の力を手にし、横にいるちょうさくとも出会うことができたわけだが、学力のなさは劣等感として残った。
「なあ、月は死後の世界に通じているというのは知っているか?」
 隣の貴公子は、程嬰の持っていない学をひけらかすわけではなく、程嬰の知らないことを言った。
「いや、知らぬ」
ゆうげつと言ってな。月が満ちた晩は、死者が冥府に行けるらしい」
 程嬰の知らないことを、趙朔は知っている。だが、一方通行の仲ではない。それがこの二人の友情であった。
 いつもなら、趙朔を連れてくることなどない裏路地に、慣れからの油断か、入り込んでしまった結果がこれだった。
 身なりのいい趙朔に、野盗崩れが因縁をつけてきたのだ。
 趙朔は、野盗がそう思ってしまうような優男でもあった。
「しかし、剣の腕を上げたな」
「そうか? 教えてもらった程嬰から、言われると嬉しいものだな」
 趙朔の声は嬉々としていた。
 趙朔は、晋でも名門の趙氏の一人だった。趙氏の現当主は彼の叔父であるが、趙氏の家を大きくしたのは、間違いなく趙朔の父親であった。
 複雑な家の事情で、趙氏の嫡流の立場ではなくなった趙朔は、叔父たちに頼ることなく、どういう伝手か、程嬰に剣術の指南を頼みに来た。
「いいだろう」
 程嬰は、二つ返事で承諾した。
 それは貴族でも、下級に位置する程嬰に、傍流とはいえ天下の趙氏が教えを乞いに来たことが誇りであったことと。
この貴公子を、剣を佩いて様になるようにすればいいだろう程度に思ったからだった。
 この頃、剣術は主流のものではない。
 製鉄の技術が、まだ発達していないので、剣は数撃で折れてしまう。そのため、あくまで儀礼に用いる程度のものだった。
 程嬰が、教えている間にわかったことだが、この趙氏の貴公子は、人に対して先入観などがない。程嬰に頼みに来たのも、信頼できる人からの紹介を素直に聞いたからだという。そして、素直な人間は教わったことを、吸収するのも早い。
 予想よりも早く教えることがなくなると、先にこの交誼を続けていきたいと思うようになったのは、程嬰だった。
 没落したが故、己の身のみで鍛錬できる武術を極めた程嬰と。
 趙氏の直系から外れたが故、武術を教えてくれる相手もいなかった趙朔。
 お互いの欠けたところを補いあった二人であった。
「立てるか?」
 先に起き上がった程嬰が、趙朔に手を差し伸べた。
「ああ、しかし、巻き込ませて、すまなかった」
 この場所に連れ込んでしまったのは、程嬰だというのに、趙朔はそう言う男だった。
「私が、もう少し強そうなら、あいつらも絡んでなど、来なかったろうに」
 ああ、なるほどと程嬰は思った。この場所に来たことが問題ではなく、程嬰だけだったら、絡まれもしなかったと思っているのだろう。
「それは、俺の役目だ」
 握り返された手に、力を込めて引き上げた。
「それでは、剣を習った意味がない」
 剣術は、あくまで儀礼のためだろうと思ったが、程嬰はあえて口にはしなかった。
「なにやら、明るいと思ったら、今日は満月か」
 煌々と月下に照らされる、この貴公子は、やがて、自分の手の届かないところに行ってしまうだろうと、先ほどの幽月の話を思い出しながら、程嬰は帰路についた。


 かつての宰相の家は、久しぶりに賑わいを取り戻していた。
 いや、先代も、先々代の主も、華美なことは好まなかったので、初めてのことかもしれない。
 燭台が灯され、緩やかな弦の響きが流れる。
 程嬰は下座から、華燭の典の中心である上座を見た。今まで、すぐ隣にいた趙朔が、来客の杯を受けながら笑っていた。
 趙朔の父親である趙盾が、当主の座を異母弟の趙括に譲ったのは、趙盾は長子であったが、正妻の子供ではなく、狄族の娘の子だったためと言われている。
 しかも、趙朔にとって、義理の祖母にあたるその正妻は、君主である晋公の娘でもあった。趙朔の叔父たちは、狄という異民族の血が入っている趙盾、趙朔親子よりも血筋がいいのである。
 しかし、この叔父たちは、その血筋に安堵し、自身の研鑽を怠ったので、分け隔てなく人に接する趙朔の方が、晋国内で声望を集めるようになった。
 この頃はまだ、趙盾の政治を思い出す人が多かったからかもしれない。
 晋公は、その民の声を元に自分の娘を、趙朔に嫁がせた。この女性は、この婚礼から、ちょうと呼ばれることになる。
「ずいぶん、気の強そうな女だ」
 君主の娘というところを差し引いてみても、程嬰の趙姫の初印象はそれだった。
 晋の公室にも、趙氏と同じ狄族の血が入ってる。後に万里の長城が築かれる地に住んでいた狄族は、いわば山岳民族であり、女性にも強さが求められたのかもしれない。
 そういう女の方が、ゆっくりとした趙朔には合うかもしれない。
 程嬰が、そんなことを考えていると、さらに下手から、程嬰に声がかかった。
「お前か……」
「本日は、お出でいただき、ありがとうございます」
と、見るからに身分の低い程嬰に、まるで諸侯へ拝礼しているかのような男がいた。
「公孫殿は、あちらにいなくていいのか?」
 程嬰は、趙朔のいる方を指して言った。
 こうそんしょきゅう――「公孫」という不思議な姓を持つ、最近、趙朔の家に仕えるようになった男だった。
 程嬰からすれば、趙朔の腰巾着とも思えるこの男に、皮肉を込めてそう言った。
「本日は、宴の差配を頼まれましたので、私は席に座るわけにはいきません」
(ああ、なんだ。趙朔にしては、華美な宴にしていると思ったら、この男の仕業か)
 趙朔から聞くところによると、公孫杵臼は古今の儀式に長けているらしい。この時代は「礼」が最も尊ばれるので、儀礼の作法に長けた人物は重宝される。
 この宴の差配を見ても、確かに長けているのだろう。しかし……。
 「公孫」という姓が、程嬰は気に入らない。
 公孫とは、文字通り公(君主)の孫の意味である。公とは諸侯の最上位の位であり、その子か、孫の代になると臣下の籍に移る場合がある。そういった人たちが名乗る際に用いられるのが、公孫といった姓であった。
 つまり、公孫と名乗っている時点で、自分は高貴な出だと言っているようなものだった。
(そんなやつが、一貴族の臣下などになるものか)
 正確には、臣下ではなく食客と呼ばれる立場なのだろうが、このように家を取り仕切っているところを見ると、まるで家宰のようでもあった。
 家宰は、主人に代わって、家の一切を取り仕切る人のことで、まだ、趙朔の周りに人がいなかった頃、自分がなってやってもいいなどと、程嬰は考えたことがあった。
 しかし、家宰になるとすれば、このような宴を取り仕切ったりせねばならず、この華燭の典を見ていると、それはただの思いあがりにすぎなかったと、程嬰は悟った。
 公孫杵臼を無視して、席を立とうとすると、冷たい視線に気がついた。
 それは、まるで物か道具を見るような視線。
 程嬰が見つけた視線の主は二人。先程まで、趙朔と趙姫を祝賀していた顔だった。
「あの方たちにも、困ったものです」
 杵臼も視線に気付いたのか、同じ方向を見ていた。
「あれが、叔父殿か……」
 趙括・ちょうどうという趙朔の二人の叔父からすれば、この華燭の典は自分たちの地位を脅かす危険なものであった。
「お立場があるのでしょうが、あの顔はご帰宅まで隠していただきたいものです」
 杵臼はそう言うと、二人の元へ挨拶しにいった。主人に悪意を持っている者でも、なるべく穏便に済ませたいのだろう。それも、程嬰にはない気遣いであった。
 しかし、本当の悪意とは、見えぬところに潜んで、虎視眈々と爪を研いでいた。


こうがんと申します」
 いきなり来訪したその男は、怜悧な目をしたまま、そう名乗った。
「司寇殿が、このような荒屋になんの用ですか」
 司寇とは刑罰を司る役職であり、無役の程嬰の元を、その人物が訪れること自体がありえないことであった。
「この度、晋全軍での出兵が決まりまして、あなたを中軍の衛士にお招きしたいとのことです」
 中軍とは、総大将が指揮する軍のことで、いわば戦の中核となる部隊だった。今、中軍の将は宰相の{荀林父|じゅん|りん|ぽ}という人物だが、程嬰とはなんのゆかりもない。
「衛士になるほどの勇者なら、荀子(荀林父の敬称)の周りにいくらでもいるだろう。そうでなくとも、晋国なら、いくらでも人はいるでしょう。
 俺のような者に話がきた理由がわかりませぬ」
「その晋公の推挙として、程嬰殿、そなたが選ばれたのです」
「晋公の?」
 晋公どころか、六卿の誰一人として、程嬰の知り合いはいない。どこでそんな話が出たのか、全くわからない。
「最近、六卿に加わりました方が、晋公に近い方でして、その方の推挙ということです」
「六卿が変わったのか」
 晋の六卿――晋という大国を運営する六人の貴族のことを指す。
 六人はそれぞれ軍を所有しているが、一軍は小国が動員できる兵力だと考えられるので、晋の兵力は小国の六倍はあると考えられる。
 元々、六卿自体を詳しく知らない程嬰であったが、入れ替わりまで耳に入らぬほど、隠棲していたのかと、自嘲気味に笑った。
「しばらく、世間から離れていましたので、戦のことを知りませんでしたが、戦があるのなら、付きたい将がいますので、お断りせねばなりません」
 どういう戦になるかわからないが、趙朔も一部隊は率いることになるだろう。どうせ戦うなら、趙朔の下で戦いたい。程嬰の思考に迷いは一切なかった。
「あなたと趙朔様のことは聞いております。今回のことは、その趙朔様よりの推挙ですから」
「……趙朔が?」
 趙朔からすれば、友である程嬰を起用するための推挙なのかもしれないが、程嬰は自分が唯一誇ることのできる武という才は、趙朔の側で振るいたかった。
「いや、それよりも、この推挙は新たに六卿に加わった者からだと言われましたな」
「はい、趙氏が新たに加わりました」
 屠岸賈は、こともなげに言った。
 これから、出世していくとは思っていたが、これほど早いとは思いもしなかった。
 ついこの間まで、同等だと思っていた男が、一軍を率いる立場――小国にも比肩するほどの力を持ったことにほかならない。
 しかし、それでも……。
「私は、趙朔の傍に」
 その願いのような呟きを、屠岸賈の言葉が遮る。
「趙朔様の車右は、公孫杵臼殿が務められるそうです」
 車右とは、まだ馬に車を繋いだ戦車が主力の時代において、主人の代わりに馬を扱う側近のことで、戦時には最も重要な役目となる。
 趙朔は自分ではなく、後から来た公孫杵臼をそこに起用した。
 程嬰は、自分がそれほど馬の扱いに長けているわけでもないことを忘れ、ただただ、自失呆然としていた。
 冷たい目が笑う。
「それでは、こちらで準備をなさってください」
 机の上に、重い袋が置かれた。中身はみるまでもないだろう。これを受け取るということは、趙朔ではなく、中軍の衛士の役目を引き受けるという意味を示していた。
 程嬰の手が、袋に置かれるのを見て、屠岸賈が頭を下げ、退出していく。
 程嬰は、その後ろ姿を制止することもできなかった。


 戦場は、黄河流域の南端。そこに周王室ゆかりの国であるていがあり、その北にある河と山に挟まれた地になった。
 この頃、長江流域はという、周と同格の国があり、周王以外で唯一王を名乗っている異国でもあった。
 鄭という国は、周よりも楚に近かったため、ある時は周に、ある時は楚にと、背反を繰り返していた。
 しかも、この時期は不幸が重なっている。
 鄭自体が、しちぼくと言われるほど、大臣が多く、政権が安定しなかったこと。
 晋公が代替わりした直後であったため、すぐに軍を動かすことができなかったこと。
 そして、なによりも、歴代の楚王の中で、最も優れているとされるそうおうの治世であったことだった。
 この戦いは、その荘王が自ら出師した戦いであり、晋軍の到着が遅れた事もあり、晋軍が到着した時には、鄭はすでに楚に降伏してしまっていた。
 到着する前に、それを知った晋の元帥である荀林父は、諸将を招いて軍議を開くことにした。
 当然のことながら、趙朔もやってくる。

 衛士として出迎えた程嬰に、騎上の趙朔は以前と変わらぬ笑みを向けてくれた。
 しかし、趙朔の隣で馬の轡を取る杵臼の姿が、程嬰に心の壁を作らせた。
 それでも、自分に対して親愛の表情を向けてくれていた趙朔は、そのまま幕舎の中へと消えていった。
 程嬰の配置された中軍は、晋軍の中核の軍であり、しかも、元帥である荀林父の衛士であれば、ほぼ戦う機会はないであろう。
 もし、程嬰の中に趙朔に対して、対等であろうという意識がまだあったのであれば、中軍に配置されたとしても、前線にでるべきであったと、趙朔の姿を見て後悔した。
 それから、だいぶ時間が経ってから、趙朔の叔父である趙括と趙同がそろってやってきた。趙括は中軍の所属であり、この幕舎に最も近く。趙同は、趙朔と同じ下軍の所属であった。時間も遅れているし、連れ立って来ることも怠慢の表れだった。
 二人の会話から「趙朔め……」という恨みの言葉が聞こえてきたが、伝え聞く軍議の様子は、元帥荀林父も趙朔も、楚との戦いを避ける方針だということだったので、もし、この二人の叔父がなにかを画策しようとしても、趙朔の身に危険は生じないだろうと、程嬰は安堵して別の衛士と交替した。
 そのため、帰陣する趙朔に会うことはできなかった。

 両陣営の元帥である荀林父も、楚荘王も、戦いを避ける方針をとっていたため、予期せず始まった戦いだった。
 楚荘王と、そのれいいん(宰相)そんしゅくごうは、鄭を降伏させたことで、これ以上の戦果はないと撤退することを考えていたが、重臣たちは、晋の政権の不安定さを指摘し、決戦を主張していた。
 荀林父と、上軍の将(この軍の副将)であるかいは、和睦の使者を送ったが、荀林父の佐将であるせんこくが独断で宣戦布告の使者を送ってしまった。
 そうした矛盾を抱えながらも、荀林父は和睦の使者を二人、再度送ったが、この二人が先縠の意を汲んだ者たちで、あろうことか楚王の本陣に単独で攻撃を仕掛けた。しかも、一人は趙一族の者だった。
 孫叔敖という武や智よりも、忠義を根幹に持つこの名宰相は、荘王を守るため、全軍に突撃を指示したことで、奇襲したはずの晋軍が、逆に楚軍に奇襲されるという形になってしまった。
 当時の軍というのは、中軍・上軍・下軍という三軍の構成になっているが、本陣と右翼左翼のように、横に三軍が並んでいると思ってもらえばいい。そして、それぞれの前衛と後衛に、佐と将が配置される。
 つまり、荘王の反撃を最も受けたのは、中軍の前衛であり、率いていたのは、この戦いを主導した先縠であったが、攻撃を受け止めることもできず、瞬く間に壊滅した。
 この先縠という人物は、この戦い以降、史書に姿を見ることができなくなるが、それだけではなく、晋の歴史に三人も元帥を輩出した先氏も歴史から姿を消すことになる。
 しかし、それでも、中軍の崩壊は止まらない。
 程嬰は、荀林父を護りながら、退却を開始したが、黄河に至ったところで、その足が止まった。渡河するための舟が足りていなかったのである。
 そこで荀林父は、瓦解する晋軍の被害を最小限にすべく、全軍に布告を出した。
「一番早く河を渡って退却したものに褒美を与える」
 当然のことだが、晋軍は一切の統率を失った。黄河に阿鼻叫喚が響いた。
 程嬰は、河岸に残り、川岸で楚軍を迎え撃っていたが、槍が折れたところで、迎撃を諦めた。
 荀林父は既に撤退したようだが、晋全軍の退却の足は完全に止まっていた。渡河するための舟が足りなくなったためだった。
「舟は戻ってこぬのか?」
 一度、渡河した舟が往復しなければ、全ての兵を帰還させることはできない。しかし、猛攻撃をしてくる楚軍の前に、もう一度立とうとする者など、いようもなかった。
 そして、晋軍のものと思われる悲鳴が上がった。
 程嬰が、その方向を見ると、人が乗りすぎた舟に乗っている兵が、後からやってきた兵が、船縁に手をかけると、その指を切り落としていた。
「ここは、死の河か……」
 もし、あの舟に自分が乗っていれば、味方の兵の指を切ったのは、自分だったかもしれない。
「まだ、力のあるものは、鎧を脱いで渡河せよ!」
 程嬰は声を上げて鼓舞したが、どれほど周りに伝わったかはわからない。
 楚兵の矢が、乗船する晋兵を捉え始める。それを迎撃しようと前に出た程嬰の肩に、強い衝撃が走り、骨が砕かれる音と共に、程嬰は意識を失った。

 戦いは終わった。
 敗軍の将となった荀林父は、帰国後、責任をとるため晋公に死を願い出たが、敗戦の原因を正確に報告する者もいたため、許されなかった。
 その後、鄭や、敵対している狄族を征伐し、威信を取り戻してから死去した。不屈の人であった。
 上軍を指揮していた士会は、唯一軍を損なうことなく撤退し、声望を集め。荀林父の後に宰相となる。春秋左氏伝には、「晋の歴史上、士会が最高の宰相である」とされる。
 この士会の時代に、晋は威信を完全に回復することになるが、趙朔はその時にはいない。
 下軍の将であった趙朔は、なんとか持ちこたえていたが、中軍の崩壊とともに一気に瓦解した。
 趙朔は杵臼の活躍もあり、無事帰国したが、帰国後に待っていたのは、戦犯という趙氏の評価だった。
 楚の本営に奇襲をしかけた使者は趙氏であり、おそらく趙括の意を汲んだ者と思われる。そして、趙括も趙同も大して抵抗もせず退却したため、被害が大きくなったことなど、趙氏に対する誹謗の声は、当主である趙朔への批判となった。
 そして、荀林父と士会に非がないという晋公の戦後処置が、この戦いで死んだ多くの兵と、またさらに多くの父母らの怨恨が、趙朔へと向けられていくのである。
 しかし、程嬰はその趙朔を助けるどころか、会うこともできないまま、数十年残された春秋(寿命)を過ごすことになる。


 夢を見る。
 陣形が崩れ、多くの人が矢と馬に倒されていく。河岸は朱に染まり、積み重ねられた屍体が、水の流れすら止める。
 もはや人の世とは思えぬ光景の中、ただただ真っ直ぐ進んでいく。
「趙朔!!」
 やっと現れた友の姿に声を掛けるが、趙朔は車上で必死に楚軍の攻撃を防いでいる。
やがて、走る馬が射抜かれ、馬車が崩れると、趙朔と公孫杵臼の主従は剣をとって応戦するが、無数の刃の前に絶命する。
 程嬰はさほど離れていない場所から、ただただそれを眺めている。

「ねぇ、大丈夫?」
 その声にようやく、夢から覚める。
 敗戦から帰国した程嬰は、浮浪の徒となっていた。
 趙朔との絆が薄れても、程嬰が程嬰でいられたのは、その根幹にある武があったからだったが、敗戦の折に肩を砕かれて、まともに武器を持つことができなくなっていた。
 そんな自信もなにも失った程嬰が行き着いた先は、娼妓たちの用心棒といったところだった。
「ああ、大丈夫だ」
「すごい汗。また、変な夢を見てたの?」
「っ―――」
 汗と言われて拭おうとすると、不意に傷ついている肩に触れてしまった。昔のように動かすことはできないが、痛みは既に引いているはずだと、治療した医師は言っていたが、ときおり幻痛に襲われる。
「ちょっと待ってね。おくすり、おくすり」
 しゃおじぇと呼ばれているこの娘は、世話好きなのか、どこの誰ともわからない程嬰を娼妓たちの家に泊めさせた。月が二度、三度と代わるうちに、用心棒のようなものから、なんとなくそういう仲になった。
 小姐は薬に詳しかったので、なにか医師と関わりがあるのかと思ったが、あまり深く聞くことはしなかった。
 小姐も肩の傷のことは聞いてこない。晋国内には、敗戦で傷を負った人が溢れていたし、気にしなかったのかもしれない。
 小姐と呼ばれているが、歳はそこそこいっていること。
「小姐って言うのは、小さいからか」
とからかうと、むきになって怒った。
 そうした穏やかな日々が、いろいろなものから、程嬰を解放していった。
 そして、小姐が妊娠した。

 子ができるという事態に、程の家のことを思い出した。永らく不在にしている家のことではなく、程氏という一家のことだ。
 名門でもなく、特にゆかりのある人間もいないので、娼妓である小姐の子でも問題ないだろう。
 ただ、一度家名を捨てたことと、自分の子供の未来に、最低限の道筋をつけてやりたいという願望とが、交互に程嬰の中を巡った。
 小姉に相談すると、
「あなたの好きな様にすればいいわよ」
と産後で少し痩せた小姐は、いつものように笑っていた。
 たった一度とはいえ、衛士だったことを伝に荀子の門を叩くことも考えたが、最後はやはり、趙朔の元へ向かうことにしたが………。

 程嬰を出迎えたのは、無人の門であった。
「誰もいないということはあるまい」
 晋の六卿に連なっている家だ。使用人全て留守にすることなどない。趙朔になにかあったとしても、その場合は杵臼が残るはずだ。
「おや、このような所で、なにをしているのです」
 驚くほど、感情のない声が聞こえてきた。
「屠岸賈……だったか?」
「はい、晋の勇士にご記憶いただき、光栄です」
 声から、所作まで、感情というものが載っていない。自分というものを見せない男だと、程嬰は思った。
「勇士などと、今は肩も動かぬ役立たずよ」
「あの戦いを生き残られた方が、ご謙遜を」
 それで会話が終わりだったのか、屠岸賈は趙朔の家の門を開けようとした。
「屠岸賈。なぜ、お前がこの家に入る?」
「私の役目は、司寇ですので、執行された法に基づいて役目を果たすだけです」
「法? 趙氏がなにかしたのか?」
 悪い予感がした。
「いえ、趙氏はなにもできませんから」
 できないと言葉は、趙朔を侮辱したように思えて、程嬰は少し苛立った。
「趙朔に問題がないのなら、なぜ、この屋敷に入ろうとする? お前の役目とはなんだ」
「その屋敷を、晋の公室に収監することです」
「収監?
 ここは趙盾様も執務を行った、趙氏の由緒正しき家だぞ!」
「趙盾……」
 屠岸賈が眉をひそめた。この男にしては、珍しく感情を表に出した気がした。
「趙氏の系統は既に、趙盾の家系から移っております」
「それは知っておる! しかし、趙朔が下軍の将に任命された時点で、誰しもが元に戻ったと知っておるだろう!」
「ええ、ですから、その趙盾の系統から、再び趙括の元に戻っているのです」
「な……んだと?」
「先代の趙氏――趙朔は、晋公に罪を問われ、自害いたしました。
 今の趙氏の当主は、再び趙括になったということです」
「自害? なぜだ……。
 あの戦いの責任を問われたのか?
 元帥であった荀子ですら、汚名を雪ぐ機会を与えられたというのに……」
「父である趙盾が、晋公を殺害した責を問われたのです」
「な――っ!?」
 ここでいう晋公とは、先々代の晋公のことになる。
 宰相、趙盾が君主を殺した。
 これは晋の人であるなら、誰しもが知っていることだった。
 当然のことだが、趙盾が直接手を下したわけではない。
 晋は、文公の時に覇者となり、後をその子の襄公が継いだ。その頃には文公を支えた名臣たちの子供の世代にもなっており、趙盾の世代でもあった。
 しかし、襄公は若くして亡くなった。
 群臣たちは、襄公の兄弟から次の君主を選ぼうとしたが、既に宰相となっていた趙盾が選んだのは、襄公の忘れ形見である幼子だった。
 後にれいこうと呼ばれるこの子は、君主の器ではなかった。
 成人して、自分で政治を行いたくなった霊公がまず最初に行ったのは、趙盾の暗殺だった。
 最初の刺客は、趙盾が朝から政務を執っている姿を見ると、暗殺を断念し、趙盾に誰が暗殺を指示したか話して消えた。
 その後も繰り返し、繰り返し刺客はやってきたので、趙盾は晋国内が乱れることを恐れて、亡命を決意した。向かった地は、母の故地である狄の地だった。
 しかし、趙盾が国境を越える前に、霊公は暗殺された。義憤にかられた趙氏の一人が行い、自害して果てた。
 戻ってきた趙盾のことを、誰しもが理解し、出迎えた。ただ、一人の史官を除いては。
 再び、次の晋公を決めることになり、最初のとおり、襄公の兄弟から選ぶことになった趙盾の元へ出されたのは、その史官の記録文書だった。
「趙盾、霊公を弑す」
 弑すというのは、目下の人間が目上の人間を殺すことで、趙盾が、霊公を殺したという記録だった。
 趙盾は自分に責任があることは重々承知していた。が、自分自身が殺したとは納得がいかなかった。しかし、史官は、
「あなたは霊公が殺された時、亡命しようと国境にいましたが、越えずに帰ってきました。
 その時点では、まだ正卿(宰相)なのですから、反逆者を処罰する立場にあった。
 しかし、それをしなかったのだから、霊公を弑したも同然のことである」
 死を覚悟した史官の言葉に、趙盾は反論せず、新しい君主の即位と同時に引退した。
 反論することができなかったのか、自分が擁立した幼君の責任をとったのか、それは趙盾のみ知ることである。
 どういう形であれ、趙盾は君主を弑したと史書には記載されている。
「今さら、そのような罪を……。
 しかも、趙朔は全く関わっていないことではないか!」
「全ては晋公の命ですので」
 そう言って頭を下げた屠岸賈の口に笑みが生じていたことに、程嬰は気づかなかった。

 そして、しばらくして、晋国内に一つの布告がなされる。
「生まれて半年以内の子を捕えよ」
 なんのためか、なにゆえかもわからぬまま、捕らえられた子たちが、処刑されたと噂が広まり始めた頃――、程嬰の元に一人の男が訪ねてきた。


「お久しぶりです。程嬰殿」
 屠岸賈は、いつもと同じように感情なく礼をしたが、その姿は初めて見た頃より、自信に満ちていた。
「お前か、こんな夜更けになんの用だ?」
「先日は、きちんとした挨拶もできませんでしたので。最近、こちらに戻られたと風の噂に聞きまして」
 子供が生まれたのと同時に、程嬰は生家に戻ってきていた。
「ご内儀ですか?」
 小姐の腕の中には、小さな赤子が抱かれていた。
「ああ、生まれはよくないが、あの戦の傷から、俺を救ってくれた女だ」
「ああ、私は生まれなど気にしませんよ。
 私も卑賤の出ですから」
「そうだったのか、司寇なら法を読めねばならぬだろうし、てっきり……」
「私に文字を教え、法を司る司寇まで引き上げてくれた方がいたのです」
 それは初耳だった。
 晋の敗戦以降、晋公の側近として台頭してきた、この屠岸賈という男のことは、よくわかっていない。
「屠岸などいう姓は、ただ単に父が刑場で処刑を執行する役に就いていたので付けられたものです。
 そして、その名をくれた私の主は、でした」
「ああ、狐射姑か」
 程嬰は呟くように口にしただけだったが、屠岸賈はそれに強く反応した。
「狐射姑様は、英知に溢れた優れた方でした。何事にも鈍い趙盾とは全く違う。
 それを当時の晋公が、近臣の趙盾に国を任せるべきなどと言ったせいで、狐射姑様は国を追われることになったのです」
 もし、趙盾の二つ目の失政があるとしたら、この好敵手だった狐射姑の追放劇だっただろうが、程嬰は趙家に近かったので、それほどの思い入れはなかった。
「たった一言。
 権力の傍にいる人間のたった一言で、私は全てを失った。
 しかし、逆に知ったのですよ」
 趙朔も杵臼も、そして、程嬰すらも。趙朔に害意をもっているのは、叔父の趙括たちだと思い込んでしまっていた。
 しかし、目の前の、今まで感情に蓋をしていたかのような男が、司寇という立場を利用して、画策していたのだと。
「幸い狐射姑から学んだ知識と、報復するまでの歳月を耐える覚悟もありました。
 なのに……、なのに! あの男は!!」
 屠岸賈の目が見開いていた。
「自分は苦しみもなく死んでしまった。
 だから、私はその子。いや、趙氏全てを滅ぼすことにしたのです!」
 今、ようやく、本当の悪意の在処を程嬰は知った。
「そんなことに正義はない。
 それに狐射姑や、その一族が晋に戻ってくるわけでもない」
「……なにを言っているのです?」
 屠岸賈が冷静になったのか、落ち着いた……。いや、いつもよりも感情の無い声で。
「非道の家の者は、滅びねばならぬのです。それを誰もやらぬので、私が行っているのです」
「それでは、いずれお前も同じ道を辿ることになる……」
 それは憎しみの連鎖でしかない。
「そのようなことになるわけないではないですか。
 私は晋公を助けて、晋の国に正道をもたらしているのですから」
 もはや、目の前の男は正気を保っていない。自分が、自分だけが正しいと思い込んでしまっている。
「ならば、今ここで……」
 立てかけている剣の位置を確かめる。奥にいる小姐に見られてしまうかもしれないが、この男はここで殺さねばならないと、程嬰は判断した。
「そういえば、お子様は生まれて間もないですな」
 凍りつくような声と目だった。
「実は、趙朔の子がいるという噂がありましてな。そのために晋国中の幼子を殺さねばならなくなりました」
「趙朔に子が?
 あの布告は、その子を殺すために?」
 今まで耳に入ってこなかった小姐と子供の声が聞こえる。
「もし、この家に子がいるのなら、外にいる兵たちを呼ばねばなりませぬな」
 剣に伸ばそうとした程嬰の手が止まる。
「あの子の歳はいくつかわかりませぬが、もし、趙朔の子が見つからなければ、捕らえる子の歳を広げねばなりませぬな」
 この男を殺し、小姐と子を逃して、趙朔の仇をとった形で自害する。
 それすら許されない。
「なにが、望みだ?」
「程嬰殿、話が早くて助かります」
 目の前の男が、少し笑ったのが見えた。
「実は、公孫杵臼の行方がわかりませぬ。もし、趙朔の子が生きているのなら、彼が匿っている可能性が一番高い。
 しかし、私の包囲網をもってしても彼が捕まりません。そこで……」
「俺に探せというのか」
「はい、お願いします。
 あくまで、男と子供の二人の命と。多くの子の命、どちらを取るかという話です。
 程嬰殿。あなたの子を助けるなどという話ではありません」
 この男は、人を突き落としておいて、一番底の部分に救いを残す。
 がしゃりと。また、重みのある袋が置かれた。
「探すのに使ってください。あの時と同じです」
 今度は、程嬰が袋に手をかけるかどうか、見届けることなく、屠岸賈は立ち去った。


 趙氏の別宅に公孫杵臼はいた。
 杵臼は、身元がよくわからぬほど、晋に縁故がいない。それならば、彼が管理している趙氏の持ち家のどこかだろうと、探したら見つけてしまった。
 できることなら、いっしょにいて欲しくはなかった赤子の姿も見えた。
 程嬰は天を仰ぐと、小姐の抱いた子のため、自分は黄泉に落ちようと覚悟した。
 程嬰を監視していた兵を呼び、屠岸賈に報せると、たかだか一人と赤子のためとは思えぬ数の兵がやってきた。
 しかも、慣れた動きで別宅を包囲していく。その中から、見知った男が程嬰の元へ歩いてくる。
「よく探し出してくれました」
 屠岸賈は、既に笑みを浮かべていた。
「司寇殿。一つ頼みがある」
「なんですか。程嬰殿の頼みなら、あの赤子の命を助けるというのでなければ、お聞きしますが」
「杵臼は、私の手で斬らせてくれ……」
 屠岸賈は、一拍おいてから、
「なるほど。趙朔とあなたの間に亀裂をいれた、あの男が許せないという事ですね」
 この決断をしたからには、屠岸賈には徹底して警戒されないようにしなければ、家にいる小姐が抱いている、あの子の危険は消えない。
 程嬰は、ゆっくりと頷いた。

 部屋に押し入ると、あの緩やかな佇まいだった杵臼はなく。目も頬も痩せこけた、流人のような男がいた。
「杵臼……、その子を渡せ」
 以前のように肩は動かないが、何か月も逃亡を重ねた男一人を斬ることは、造作もないように程嬰は思えた。
「程嬰……、今まで! 今まで何をしていた!! 趙朔様は最期まで、お前を!!」
 程嬰と同時に踏み込んだ兵たちが後ずさる。それほど、公孫杵臼は鬼気迫る姿だった。
 しかし、以前のような強さはなくとも、多くの修羅場をくぐってきた程嬰には、無意味だった。
「あの子のためだ。許せ」
 杵臼の力のない一撃を躱し、動けなくなるよう肩口から斬り下ろした。力の入らない程嬰には、振り上げた剣をその重みで振ることしかできなかった。
 そして、赤子の鳴き声が上がる。杵臼が倒れたことで、気を取り直した兵たちが、白刃を構えているところだった。
 杵臼がまるで獣のような叫び声を上げている。しかし、それも赤子の声が聞こえなくなると同時に止った。
「杵臼。今、楽にしてやる」
 数か月、いや、あの戦いの後から、趙氏に向けられた悪意を、この男は趙朔と共に耐えてきた。そんな男を、これ以上苦しめたくはない。
 程嬰が再び、剣を振り上げる。
 公孫杵臼はなにを見たのか、笑みを浮かべながら、自分に向ってくる刃を見ていた。


 十数年の歳月が流れた。

 私の最初の記憶は、暗い布の中。
「……を滅ぼしたくば泣きなさい!
今一度、復興する気があるのなら、泣かぬことです」
母とは違う女性の。しかし、凛としたその言葉は、母のような思いやりがあった。
 だからか私は、その言葉に従い泣かなかった。
 それから、制止する誰かの声を遮り、鎧の動く音が近づいてくる。無感情な男の声が、その女性になにかを差し出すように言っても、私は、只々泣かなかった。
 現実にあったことなのかも、よくわからないこの記憶は、今も脳裏に焼き付いているのは、恐怖のためかもしれないが、暗闇の中は暖かく、その闇も暖かさも、私を護ってくれるためのものだったからかもしれない。
「武よ。こちらへ来なさい」
 父である程嬰に呼ばれていくと、先ほど亡くなった母の喪が明けたので、とある方に挨拶に行くとのことだった。
 父はまだ、貴族の席に戻る気なのか、私に過分な教育と剣術を教えてくれているが、屠岸賈に与した家の子。そのように言われている私に、官途の道は開かれてなどいないだろう。
 屠岸賈という人物は、この晋国の司寇という役職に就いているが、甚だ評判が悪い。
 つい先年、父もゆかりのあった趙氏の当主であった趙括を殺し、他の趙氏も他国へと追いやった。
 それだけではなく、私が産まれた頃、産まれたばかりの赤子を捕えるという布告も、彼のものだったことがわかり、今、晋国中から非難を受けている。
 そして、父と私は、その屠岸賈から、どういう経緯かわからないが、金銀を得て生活をしている。
「武よ。着いたぞ」
 父の言葉に足を止めると、思ってもいなかった屋敷の前だった。
 かんけつ――晋の六卿の一人であり、今は(軍事を司る役職)であるが、晋公室の分家に当たるこの家は、晋において法を司る家であり、法を思うがままにした屠岸賈とは、敵対する立場だった。
「晋公のお許しが出たぞ」
 屋敷に入ると、晋の六卿である家の主が出迎えてくれた。六卿に連なる人なんて、初めてどころか、この先も会う機会などないと思っていたので、この状況がよく飲みこめずにいると。
「その子が、趙朔の子か?」
 韓厥様は、まるで久しぶりに会った親戚の子を見るかのように、私を見ていた。
「はい、なんとか無事、成人まで護ることができました」
 父は、韓厥に拝礼しながら、肩を震わせている。
「申し訳ありません。趙朔というのは……?」
「まだ、伝えていなかったのか」
 韓厥が驚いたような顔をしている。
「はい、最後のいつ、どこで、あの蛇のような男の刃が降りかかってくるかもしれませんので」
 その言葉に感激したのか、韓厥も顔を隠し、肩を震わせた。
 それは公孫杵臼と、今まで父と慕っていた程嬰の全てを賭けた策であった。

 晋国内に、生後半年以内の子を捕えるよう布告がなされた頃、程嬰の元に一人の男がやってきた。
 それは程嬰の見知った姿ではなく、どこかの流人のような姿をした公孫杵臼だった。
 その姿を見た瞬間、父は地に頭を打ちつけんばかりに謝罪し、許しを乞うたが、公孫杵臼の望みは、そのようなものではなかった。
「趙朔に子供がいる?」
「はい、趙朔様が処刑される時には、まだ生まれておりませんでしたが、身ごもられていた趙姫様がそのまま宮廷に戻られまして」
「なるほど、それはよかった。
あの屠岸賈という男。 おそらく、趙括らも殺す。趙氏を族滅するまで、なにがあっても止まらぬだろう」
「はい、いずれ時が経てばと思っておりましたが、先の布告です。
 あれは、どのような手段を用いても、趙朔様の子を殺すという意味でしょう」
「なんというやつだ……」
「それはおそらく、私が趙朔様に殉死しなかったので、生まれた疑惑程度のものだったのでしょう。
 しかし、実際にその子が生きている以上、いつかわかってしまいます」
「この身体では、やつと刺し違えることすらできぬ」
「……程嬰殿。あの位牌は?」
 机の上には、真新しい位牌が置いてあった。
「先日、子を失ってな。生まれつき身体が弱かったのだが、妻が自分も身体が弱かったからだと、気に病みすぎてしまって」
 趙朔の死を知ると同時に、程嬰の身に降りかかった災厄だった。
「程嬰殿。不幸の中、一つお願いがあります」
 杵臼の願いは、趙姫の元へ行って、趙氏の孤児を程嬰が受け取る事。
 その後、程嬰の子として、その子を育て、成人の暁には、趙氏を復興させる事。
 趙姫とも縁のある韓闕にも話を通しておくとのことだった。
「しかし、それでは屠岸賈の追及はかわしきれまい。
 私と妻が守るよりも、宮廷にいた方がまだ可能性が……」
「屠岸賈は僅かでも可能性があれば、必ず見つけます。それは貴方もご存じでしょう。
 私たちがしなければならないことは、その僅かな可能性もなくなったと、あの男に思わせること。屠岸賈に、自分の復讐が果たされたと、信じ込ませることです」
「……しかし」
「程嬰殿。まだ、策には続きがあります。
 これは程嬰殿にしかできぬことです。
 私はこれから、完全に隠れます。おそらく、貴方にしか探し出せない場所にです。
 そうすれば、あの男は貴方を頼ります。脅迫にも近いことをされるでしょう。
 貴方はそれを承諾し、私を探し出して殺してください」
「杵臼、それはできぬ!
 死ぬなら、俺に! 俺を死なせてくれ!」
「いえ、私が生き残っても、屠岸賈にいずれ殺されます。そうなれば、趙氏孤児は養ってくれる人がいなくなります。
 今、孤児を託せるのは、貴方しかいないのです」
 杵臼の目は、全てを覚悟したものだった。
「なぜ……。
 趙朔の元を去った俺を、なぜ、そこまで信頼する」
「趙朔様は、流浪の私を対等の客として扱って下さりました。その恩を返すため。
 程嬰殿。貴方も私を対等だと思ってくれたから、私に競争心を持ってくれたのです。だから、私も強くあの方への忠誠をもつことができた」
 杵臼は、程嬰が全て受け入れてくると確信した顔で。
「なによりも、この先、何十年。いや、来ないかもしれない歳月を、待ち続けながら守り続けることなど、趙朔様のただ一人の友だった貴方以外に託せるわけがないではないですか」
 もう言葉はなかった。
 杵臼と程嬰の最後の策は、二人の決意のみで成立した。

 その後、趙姫の元を訪れた屠岸賈から奇跡的に逃れた孤児を、程嬰は連れ帰ると、そのまま自分の子とした。
 武と名付けられたその子は、子を失ったばかりで記憶が混濁していた小姐は、自分の子として慈しんでくれた。
 程嬰は、杵臼を殺すことだけは、自分でやらねばならぬと思っていた。腕に力が入らない以上、痛みを伴わぬよう殺すことは難しいかもしれないが、それは程嬰がやらねばならないと覚悟していた。
 ただ、武の身代わりに他の赤子を用意しているとは思わなかったので、それには驚いたとともに、その赤子の分も自分が償わなければならないと覚悟もした。
 屠岸賈には、ことある毎に金を無心した。武を養うためではあるが、程嬰も共犯であること、なにより、程嬰が矮小な人間だと屠岸賈に思い込ませなければならない。
 他の趙氏が族滅されていく中、ただただ、程嬰は耐え続けた。
 そして、今、それが結実した。

「これからは、趙武と名乗るがいい」
 六卿の一人である韓闕が、後見人になる以上、屠岸賈も私に危害の加えようがないと、父は言った。
 なにより、屠岸賈も最期を迎えるのだから。
 韓闕が号令をかけると、今まで屠岸賈に従っていた司寇の兵らも、同行して屠岸賈の家へと押し入った。
「よく来たな、程嬰」
 父と兵たち、そして私を出迎えた男は、噂に聞くほど恐ろしい人物には見えなかった。
 趙朔の子が生きていて、目の前にいるというのに、父から聞いていたような怨みの感情を向けられなかったかもしれない。
 晋の君主が代替わりし、新しい君主が韓闕たちを抜擢すると、屠岸賈は全ての後ろ盾を失い、裸同然に宮廷を追われた。
 今、韓闕が読み上げているのは、屠岸賈を司寇から解任するという書簡だった。
 屠岸賈は全てを聞き終えると、小さく呟いた。
「これで、ようやく狐射姑様の元へいける……」
 行った悪行のいくつかは、晋公室のためであったかもしれない。しかし、己の復讐を為すために、全て自らの罪とした。
 そんな男の最期だった。


 永く主のいなかった趙氏の館が、煌々とした月の光に照らされていた。
「父……、いや、程嬰。よく来てくれた」
 つい先日まで、父と慕っていた人が、自分にかしずいているのは、いささか不思議な感覚だったが、最初が肝心だと思っているのだろう。いずれ、以前のように父のように振る舞って欲しいと思っている。
「公室に収監されてから、誰も使っていないと聞いていたが、存外、手入れがされているな」
 館は柱も床も、誰かが住んでいるかのように、手入れされていた。
「趙姫様のはからいかと思われます」
「そうか……母の」
 趙武を産み、程嬰に預けた趙姫は、趙氏粛清の中、病にかかって亡くなっていた。
「程嬰よ。母はわかるが、なぜ、韓闕様も私に力を貸してくれたのだろう?
 屠岸賈が、韓氏の領域を侵したのはわかるが、私を引き立ててくれた理由がわからない」
 仮に、屠岸賈を除くために、趙氏を復興するとしても、他の趙氏の血筋から選ぶこともできたはずだ。
「韓闕様は、若い頃に趙盾様に司馬に引き立てられたそうです。
 あの戦いの折には、監軍……つまりは軍の目付役だったので、趙朔様を助けることができず、申し訳ないと言われておりました」
 この父が、昔は無頼の徒として、荒れていた時期があったとは信じられない。
 今、私が晋の執政の中で、作法などを無事行えているのは、父が教えてくれたからだ。父は、いろいろなものと引き換えに、それをしてくれていたのだろう。
「趙武様。これからです」
 父が静かに言った。
「はい、これからですね。
 二人で趙氏を復興せねばなりません。
 ここも人を増やさねば……。ていえ……」
 振り返ると、程嬰はこちらを見ていなかった。
 少し伏せた顔は、私に向けている。しかし、その視界は全く、私を見ていなかった。
「そ、そうだ。
 まずは、程嬰。そなたに報いたい。今の私はまだ、そなたに与えられたもの全てを返すことはできないが……。
なにがいいか?」
 父の喜ぶ顔を見たかった。「趙朔のようだ」と言って欲しかった。しかし……。
「死を賜りたく思います」
 程嬰はそう告げた。
「な、なにを言っている!?
 これから、これからではないか!?」
「報いたいと言われて、最初に思い立ったことは、趙朔に会いたい。
 お前にしてやれなかったこと。
 お前が俺にしてくれたこと。
 全て、武に与えてきた。
 それを誰よりも先に、趙朔と杵臼に伝える役目を、私以外の者に奪われたくない。
 ……ただ、それだけだ」
 そう言って、静かに目を閉じた父は、その心はもうここになかった。
「幽月か……。
こんなに月が出ている夜なら、早く会えそうですね」
 幽月という死後の世界の話を、父とした記憶はない。それほど、父から多くのことを教わった。
 だが今、そのことをとっさに思い出した。
 父が笑ったようだった。


 この後、趙武は趙氏を再興し、晋の宰相にまで上り詰める。
 武という名をもったこの宰相は、趙氏が滅亡したことを戒めとして、常に温和で、一歩引く姿勢だったという。
 春秋時代は、晋と楚が激しく戦いあった時代だが、趙武の代で初めて和平が結ばれることになる。
そのため、死後、趙文子と呼ばれた。

 「絶えて、後よし」という趙盾の夢が、趙氏にどう影響したかわからないが、数代の後、独立し諸侯として戦国の七雄に数えられるまでになる。それは、秦の始皇帝にとって、最大の障壁となった国でもあった。
 そんな趙氏の墓の中に、程嬰と公孫杵臼という趙姓でない二人が入っている。


人物一覧

 程嬰 てい・えい
晋の下級貴族。武術の達人。
  (趙氏孤児では、医者)

 趙朔 ちょう・さく
 晋の貴族。後に六卿の一人。

 公孫杵臼 こうそん・しょきゅう
 出自不明の名士。趙朔に仕える。
  (趙氏孤児では、老人)

 屠岸賈 とがん・か
  晋の司寇(刑罰を司る役職)

 趙盾 ちょう・とん
  趙朔の父。晋の名宰相。故人。

 荀林父 じゅん・りんぽ
  晋の宰相。元帥。
  荀子とも呼ばれる。

 士会 し・かい
  晋の将。軍事に優れる。

 韓闕 かん・けつ
  晋の将。晋の公族に連なる。
趙盾によって、軍事の才能を見出される。

 武 ぶ
  程嬰の子。


用語一覧

 趙氏孤児(ちょうし・こじ)
 という劇が中国にありまして、同じ題材なので、今回改めて調べてみたんですが、史実(春秋と史記)と見比べると、劇用に変更が多いみたいです。(程嬰が、医師だったり)
 どちらに寄せるか、いろいろ考えたんですが、趙氏孤児は中華的な価値観が多く、史記の方にしました。

 晋都(しんと)
 この時代だと、絳(こう)と呼ばれていますが、馴染みのない漢字だったので、晋都としました。三国志の時代には「晋」、それ以降の時代には「唐」と呼ばれている都市です。
 中国の統一王朝の晋と唐は、この地名からとられていることを考えると、かなり大きな都市だったと推測できます。

 氏・姓(し・せい)
 古代中国史をやると、これが非常にわかりにくいです。
例えば、封神演義の太公望の正式な名前は、

姜 呂 尚 子牙
(氏・姓・名・あざ名)

これを簡単に解釈すると、
 「姜」族の「呂」に住んでいる「尚」という名前で、同名の人もいるので大人になってからは、「子牙」というあだ名でも呼ばれています。
という感じです。
 また、女性はもう少し複雑で。作中に出てくる趙姫は、趙氏に嫁いだ姫姓(晋公の姓)の女性という意味になります。

 春秋時代(しゅんじゅうじだい)
 中国史の最初の戦国時代です。ただ、宗主国として周(東周)があって、百を越える諸侯が存在しています。(この後、趙魏韓斉燕楚秦の七国がそれぞれ王を名乗るようになってからが戦国時代=漫画キングダムの時代です)
 春秋という言葉は「歳月」という意味で、春秋時代の末期に現れた孔子が、この名前の同時代記を書いていたことに由来します。

 家宰(かさい)
 貴族の家の中を執り仕切る者。現在でいうところの執事など

 車右(しゃゆう)
 この頃は戦車が主力であったので、主人の馬を扱う者。君主の車右は、後に軍事職に就くことが多い。作中の登場人物では、士会も務めている。

 宰相 (さいしょう)
 晋では、正卿(せいけい)
楚では、令尹(れいいん)といいます。
 作中では、晋は宰相にしています。

 邲の戦い(ひつのたたかい)
 作中の戦争の名称。紀元前597年。
 晋楚の三大決戦で、唯一、晋が敗北した戦い。(他は、紀元前632年の城撲の戦いと、紀元前575年の鄢陵の戦い。ともに晋が勝利)
 勝者となった楚荘王は、春秋の五覇の一人とされ、彼が死ぬまで、楚が春秋の覇権国として君臨することになります。