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みぎうでドラゴン

 十九歳の夏。努力不足の結果として、僕は二度目の受験に失敗した。

 震災で大きな被害を受けた街は、数年のうちに随分と様変わりしていた。表通りには活気が溢れ、センター街は震災の記憶もおぼろげだろう若者たちでごったがえす。でも、かつてのこの街を知る人たちにとって、真新しくなった風景は、かえって消えてしまった建物や店を思い起こさせるのではないかと僕は思っていた。昨年に引き続き予備校に通わせてもらったものの、講習に出る気にはなかなかなれなかった。とはいえ家に帰るわけにもいかず、喫茶店に行くには金が惜しく、サボりをともにする友人もおらず。要は「ぼっち」というやつだ。

 学力的に余裕があったわけではない。かといって、押しつぶされそうな不安に苛まれていた、などというかわいげがあったわけでもない。判定模試の結果はBで――それは二浪の人間が満足できる成績かと言われれば微妙だけど――絶望するほどの成績ではなかったし、まあ今年は何とかなるんじゃないかという、根拠のない自信もあった。他の受験生が自習室の席を競い合うのを後目に僕は、カードキーで出席の証拠だけ残してそのまま繁華街へと向かう生活を続けていた。暇をもてあます僕にとって、春先に駅前ショッピングモールにオープンした古本屋はまさに砂漠のオアシスだった。

 古本屋といっても、チェーンのかなり大きな店で、ビルの三階と四階にフロアぶち抜きで陣取っていた。本の状態は良くないものが多く、そのくせ値段も高かったけれど種類は豊富。なにより、すべての本を立ち読み出来るのがありがたかった。目当ては、大量に並んでいる漫画。何十巻もあるようなコミックは、バイトもしていない学生の僅かな小遣いでは到底揃えられない。それにもし揃えたとしても家に置き場はなかったし、そもそも親に見つかると面倒だ。そんなわけで僕は、予備校の替わりに古本屋へ通い、途中まで買いながら集めるのを止めたり、巻数が多くて購入をあきらめたコミックの「復習」に精を出していた。

 その店には、僕と同じフロアに滞在する女の子がいた。

 彼女のホームポジションは、文庫の小説コーナー。あまり売れゆきを期待されていなかったせいだろうか、漫画の棚の一番奥まったところにとられたスペースは、店全体の一割にも満たない、ひっそりした薄暗い場所だ。半ば荷物置き場のようにダンボールが積み重ねられ、本棚の下の引出しも開けっ放しになったその空間で、彼女はダンボールにちょこんと腰掛けて、いつも熱心に何か本を読んでいた。ぐっと背中を丸めて本に顔を近づけ、日焼け対策とおぼしき長い手袋をした右手を本の背に添え、左手でページをめくる、独特の読書スタイル。
 はじめて見た時はあまりに奇妙な姿だったので、体調でも悪いのかと気になって声をかけようか迷ったのだが、その姿勢のまま何分も座って本を読んでるのでスルーして通り過ぎた。けれどそれ以来、なんとなく気になって彼女のことを見るようになった。左利きなのだろうがよほど右手が嫌いなのか、本を出すのもしまうのも、いちいち左手に持ち替えて行っていた。

 僕の古本屋通いはほぼ毎日のことだったのだけど、多分、彼女も同じくらいの頻度で通っていたように思う。自然、顔をあわせることが多くなり、向こうも僕を認識し始めたらしい。いつからか、会うと挨拶くらいはするようになった。

 やたらと蒸し暑い日だった。

 まだ午前中だというのに、時計で温度を確認すると、三十度を超えている。
 熱が身体じゅうにまとわりついて、汗がシャツに黒い模様を描く。お腹や背中を汗が流れていく感触は最悪で、へばりつく湿った布の感触はもっと勘弁願いたかった。眼鏡に汗がいかないよう、手のひらで額を拭いながら、駅を西口から出てショッピングモールの方へ無理やり足を向ける。古本屋の入ったビルの自動ドアをくぐると、冷たい空気が通り抜けて、体から一気に熱が奪われた。ポケットにつっこんだ携帯をジーンズの上からいじりながら、僕は一段抜かしでエスカレーターをのぼる。

「あれ、こんにちは」
 三階に着くと、ちょうど彼女と出くわしたので挨拶をする。
「こんちゃ」
「今日は帰り?」
 彼女は、下りのエスカレーターに向かって歩いているところだった。
「うん、今日はちょっとネ。明日模試だから」
 それでもわざわざ古本屋に来たということは、僕を待っていてくれたのかな、などと都合の良いことを考える。
「模試?」
「私、浪人だから」
「僕もだよ」
 だから何だ、と間抜けな反応を自嘲する。
「まあ、毎日規則正しく古本屋で暇つぶしをするなんて贅沢、浪人生くらいしか出来んよね」
 ちょっと無神経だったかと緊張したけれど、それもそうだね、と彼女は口を開けて笑った。僕もつられて笑う。目線を彼女に向けると、彼女はまっすぐに僕のほうを見ていた。目を合わせるのがはばかられて、視線を少し下に向ける。なんとなくもう少し話をしたい、そう思って話のとっかかりを探した。
「明日の模試ってひょっとして東都大の実戦模試? 僕も受けるんだけど」
 彼女は少し口許をゆるめて頷く。偶然だね、と言った彼女の表情は魅力的で、僕は何だか吸い込まれるような錯覚に陥った。

 それからしばらくの間、僕たちはラウンジで他愛ないおしゃべりを続けた。彼女は僕とは別の、ひと駅離れた大手予備校に通っているらしかった。親兄弟との会話も含めて、こんなに喋ったのは、二年間の浪人生活の中で初めてかもしれない。僕は目線をせわしなく動かしながら、時々彼女の顔を見た。彼女は、多少贔屓目が入っているかもしれないが、結構整った顔立ちだ。小さい顔に、ぱっちりとした丸い目。ベージュに染めた髪。動きを入れたグラデーションのショートボブが驚くほど似合う。たぶん化粧はしていなかったけれど、別に野暮ったい感じではない。白いシャツとチェックのスカートが、雰囲気にとても合っている。両手にはいつも通り、肘の上まである真っ白な長手袋。どんな暑い日でも、彼女がこの手袋を外しているのを見たことがない。快活そうな彼女の見た目には、あまり似つかわしくなくて、なんだか異様に映っていた。とはいえ、この手のことにかんして女性というのは凄まじいものがある。僕の叔母も、毎日のように化粧水を顔に塗りたくり、出かける時は手袋だ。男の僕からすれば、日傘でじゅうぶんだと思うのだけれど。

 やがて彼女が、そろそろ帰ろうと言い出した。時間はいつの間にか三時半を過ぎている。そろそろ講習の昼の部も終わる。確かに潮時かもしれなかった。
望月楓子もちづきふうこ
「え?」
「私の名前。望月楓子。楓の子って書いて、フーコって読むの。変わってるでしょ」
「へえ、そうだね」
 言うと、彼女はぷっと噴き出した。
「そこはさぁ、『いや、そんなことないよー』とか、『良い名前だね』とか言わないとダメでしょ。それから、相手が名乗ったら自分の名乗る!」
「あ、ああ。なるほど……。ええと、僕は、俣野延太郎またののぶたろう。水俣の俣に、延長の延。郎の郎は、朗らかじゃない、普通の郎」
「ほーほー、ノブタローね」
「友達とかは、エンタローって呼ぶけどね。延太郎って何か言いにくいから」
「エンタロー、良いね。私もエンタローって呼んで良い?」
 女の子にあだ名で呼ばれるなんて滅多に無い大イベントだ。ドギマギしながら首を縦に振る。
 ぱっと花が咲いたように彼女は微笑み、左手の親指をぐっと突き出した。
「へっへー。よろしくね。私のことは、モッチーとかフーコとか、好きに呼んでよ!」
「いきなり名前呼び捨てはハードル高いなぁ。けど、モッチーは別の友達のあだ名なんだよね」
「ま、望月だと、だいたいモッチーになるよね。お姉ちゃんも、モッチーって呼ばれてるし。酷いんだよ、お姉ちゃんの友達! うちに遊びに来たとき、私を何て呼ぶと思う? 二号だよ。モッチー二号だから、二号! 特撮のバッタ戦士じゃないっての」
「そりゃまた何とも……。んじゃ、僕は、望月さんで」
「ええぇ……そりゃあ無いでしょ、エンタロー。私は親しみを込めて、キミをあだ名で呼んでるわけですよ。それなのに、キミが私を名字で呼んで、あまつさえさん付けするだなんて、空気を読めないにも程があります。っていうか、単なるヘタレ!」
 ぐいっと詰め寄ってくる彼女に、僕は仕方なく降参、といった感じで両手をあげた。内心では近づいてくる彼女の顔にドキドキしながら。
「オッケー、わかりました。ではフーコさんということで」
 すごい形相で睨まれる。
「……フーコ。これでいい?」
「よろしい。これでわれわれは、古書店自由人同盟メンバーだ! よろしく!」
「なんか凄いかっこいいけど、要するに古本屋で貴重な勉強時間を潰してるダメ人間ってことだよね、それ」
「まあねー。しかも、模試なんてのが気になって帰らないといけないんだから、自由もたかが知れてるわ」
「そりゃごもっとも」
 僕は苦笑しながら頷いた。
「すまじきものは受検浪人ってね。そんなわけだから、お先に。またね」
「うん、さようなら」
 僕の返事に彼女はバッグを持ったまま左手をひらひらっと振って、エスカレーターを降りて行く。昔、絵本で読んだ不思議の国のアリスの一頁――アリスが白ウサギと追い掛けている場面が、唐突に脳裡をよぎる。
 僕は、ちょっと楽しい気持ちを抱えて、いつものように漫画の棚へ向かった。

「どうだった?」
「全然ダメよ。表情からお察し頂けると幸いでございます~。エンタローはどうだったの?」
「僕はほら、数学は棄ててるから。英・国で挽回予定」
「あー。点取り教科ある人はいいよねぇ。それにしても文系に模試やらせるとき、前半に数学はやめてほしいよ。士気にかかわるわ」
 ぐえ、と潰れたカエルのような声をあげて、楓子は机に突っ伏した。僕は微苦笑を返してペットボトルからお茶を飲む。
 彼女の学力は、東都大に到底届きそうもないレベルだった。志望校のランク下げたら、と進言しようかとも思ったが、それも失礼かと思いとどまる。
「それは僕らの決められることじゃないから、しょうがないでしょ。それにまあ、数学得意な人からすれば士気が上がるんじゃない?」
「名和高校の人とかってそうなんでしょうね。どういう頭してるのか、たたき割って中味を見てみたいわ」
「あいつらはねぇ……下は下で酷いらしいけど」
「ふうん」
 模試の午前中が終わって昼休み。昼食をとりながら、僕は彼女と話をしていた。文系で二浪した僕には、同じ模試を受ける友人がいない。一人寂しく座っていたら、朝方、彼女の方から話しかけてきた。見る限り、彼女もぼっちである。五十音順で受験番号が振られていたせいで、僕らの座席は随分離れていた。というか、最後尾から二番目が彼女。「望月」の次だからたぶん、最後の人は、ヤ行とかワ行の名字だろう。山田か山本か。もしかすると渡辺。その辺だろうな、なんてことを彼女と話していた。

 二人で話をしているといっても、建設的な話はほとんどない。模試の答え合わせもせず、愚痴を言い合っているだけだ。
「食べ過ぎると眠くならない?」
 僕は行きがけにコンビニで買ったおにぎり。楓子は弁当持参だった。結構ボリュームがある。
「なるなる! でもさ、食べないと動けなくなるじゃない」
 彼女はそう言って、ひとくちサイズのハンバーグを左手の箸で口に入れた。ベージュのショートパンツにカラフルなシャツ。それだけなら可愛い格好なのに、右手を覆う真っ白な長手袋が強烈に自己主張をしていて、やっぱりどうもちぐはぐな感じを与えていた。
「頭使うとカロリー消費するって言うし、これくらいでいいのよ」
「ホームズは、胃に血が行くから推理する時は食事しなかったってさ」
「なに、それでおにぎり一個なの?」
「もちろん。僕はホームズ先生を尊敬してるからね」
「じゃあ、モルヒネも打たないと」
 彼女はけらけらと笑った。僕らはもう、すっかり試験のことを忘れていた。
「そういえばさ」
「ん?」
「この前、自己紹介したのに、メアド交換しなかったでしょ」
「ああ……そう言えば」
 そもそも、女の子と連絡をとろうという発想が無いから、すっかり失念していた。
「じゃ、交換しよ。赤外線、できる?」
「そんなハイテクな機能、使ったこと無いから分からん」
「えー。一応通信はできる機種だよね? ドコモ?」
「ドコモ。Pのなんちゃらっていうやつ」
「ちょっと見せて」
 ポケットに突っ込んでいた白い携帯を渡す。左手でそれを受け取った彼女は、片手で器用にフタを開けると、カチカチと数度ボタンを押した。
「ほい、これの『赤外線通信許可』っていうのを押すと受信。送信のときは、電話帳のアドレス開いた状態でメニューから『赤外線送信』を選ぶと良いよ」
「おお……」
 感激して携帯を受け取る。彼女は呆れた顔でため息をついた。
「アドレス帳ちょっと見ちゃったんだけど、結構人数いるじゃない。いままでどうやって登録してたの?」
「え、普通に紙に書いて渡して、空メールを送ってもらってた……」
「うわ、そりゃ相手に同情するわ」
「いいんだよ、僕はアナログ人間なんだから」
「いやあ、むしろ原始人レベルね……それはそうと」
 ニカッと悪戯っぽい笑みを浮かべて、彼女は僕に人差し指を突きつける。
「着歴、ほとんど家族と男の名前だけど、エンタローは彼女とかいないの?」
「ちょ、プライバシーの侵害だぞ!」
「ホイホイ他人に携帯渡すのが悪いんだよ~。ま、細かいことは良いじゃない。で、いるの?いないの?」
「いーまーせーん。だいたい、そんな相手がいたら毎日古本屋で時間潰すわけないだろ……」
「そっかそっか、お互い、寂しい青春だねえ……」
 顔を赤くする僕を後目に、楓子は納得した表情で頷いている。僕は憮然として立ち上がった。
「あれ、何処行くの」
「自分の席に戻る。もうすぐ昼も終わるし、ちょっと最後の詰め込み」
 見れば、周囲は休み時間を利用して参考書を見ているような連中が大半。その中には騒がしい僕らを迷惑そうに見ているのも何人かいた。謝るつもりはないが、心中推し量るといくぶん申し訳ない気持ちにはなる。
「すねないすねない、まあ良いじゃない、彼女なんていないほうが勉強に集中できるし、浪人生活有意義に過ごすこと考えたら、むしろステータスだよ」
 慰める気があるのかないのか。妙に優しい声で、でもからかうように言ってくる彼女を振り払い、僕は乱暴なおとを立てて着席。
 一応参考書を広げるが、頭には入ってこない。休憩時間の間僕は、ずっと「そういう自分は、彼氏とかいるのかよ」と聞けなかったことを後悔していた。

「ま~た~の~っち!」
 教室で昼食ファーストフードを食べていると、突然後ろから抱きつかれた。金髪にピアスをつけ、両手に合計八つの指輪をはめている。いかにも遊び人、といった風体の、背の高い男。名を田中亜門たなかあもんという。文系の浪人仲間であり、三浪目に突入。高校で留年したといっていたから、僕より二つ年上のはず。予備校で僕が話をする、ほぼ唯一と言って良い知人だ。ただ、ほとんど予備校に来ないせいで日常的につるむことはない。
「何ですか、暑苦しい」
 一応敬語である。抱きつかれた拍子に、きつい香水の匂いが鼻をついて、僕は顔をしかめた。
「聞いてや~。この前知り合った美容室のおねーさんとな、昨日デートの約束してんや~。それが、直前になってメールが来て、『彼氏とヨリを戻すことになったからごめんなさい』やて!もうホンマありえんわ~」
「あれ、先週はデパートの店員さんって言ってませんでしたっけ。また違う女性ひとひっかけたんですか……」
「あ~、美保ちゃんやな、それは。彼女はやね、ペットショップの洋子ちゃんとホテル行っとったのバレてもてな、修羅場なって、どっちにもフラれてしもた」
「はあ……」
「もう、最後すごくてなあ。美保ちゃんは『アンタの内蔵掴みだして、握りつぶしてやる!』とか言いだすし。洋子ちゃんは家に行ったら、気持ち良う通してくれてんけど、カルピスや~言うて出された白い飲みモンがな、カビ臭い味しかせえへんのや! ニコニコしながら俺のほう見てるから我慢して飲んでもたけど、あの味、絶対絵の具やったで。ホンマに女は怖いなあ」
「その怖さを味わってるのは、亜門さんオンリーだと思いますけど……それ以前に、飲んで絵の具って分かる時点で色々アウトじゃないですかね」
 じゃれついてくる亜門さんの頭を腕で押しのけ、食べ終わった弁当を片づける。
 イケイケの不良っぽい外見に反して随分と人なつっこく、実際悪い人ではないのだが、いかんせん女性関係が派手だ。あっちこっちで火種をつくってぽんぽん発火させるくせに、致命的なまでに火消しが下手だから始末に負えない。本人曰く、「俺はねぇ、どの子にも真剣や! いつだって本気やねん! せやから、誰か一人とか選べへん」ということだが、せめて後腐れの無いように対処しないと、そのうち後ろから刺されるんじゃないかと他人事ながら心配になる。もっとも、噂されているように金銭で解決――亜門さんの実家はこの辺では有名な名家で、随分と金があるのだ――しているということは、僕の知る限り、ない。亜門さんは家の金や声望を利用することを極端に嫌っているし、やたらとチャラい格好をしているのも、本人の弁を信じるなら厳しくしつけられた幼少期のリバウンドだということだった。
「で、何の用ですか? 言っておきますけど、ゲーセンには行きませんよ。亜門さんと対戦しても、とても勝てませんからね」
 亜門さんは格闘ゲームが得意で、中でも「鋼拳」という3D対戦格ゲーでは全国大会に出たほどの腕だ。以前、それを知らずに対戦して酷い目に遭った。
「あーちゃちゃう。今日は、俣野っちに聞きたいことがあって来てん」
「聞きたいこと?」
 振り返ると、亜門さんはとても良い笑顔を浮かべて僕を見ていた。嫌な予感がして逃げ出そうとするも、僕の腕ががっちりと掴まれる。
「せや。俣野っち、最近なんか、すんごい美女とお近づきになってるって言うやん。どういうことか、ちょっと説明してもらおか~」
 興味本位以外のなにものでもないだろう。しかし、だからこそタチが悪い。ちょっとやそっとの誤魔化しでは納得してくれなさそうな雰囲気に、僕はあきらめて天井を見上げるのだった。

「ほんとに、何でもないんですけどね。たまたま本屋で知り合っただけで」
「本屋て、シンク堂?」
「いえ、ショッピングモールに新しくできた、古本屋です」
「ああ、あっちか……また、変なところで知り合ったんやな」
「いたるところで出会い作りまくってる亜門さんには言われたくないですよ」
 予備校八階のラウンジで缶コーヒーを飲みながら、僕は楓子と知り合った顛末を話していた。最初こそ興味津々だった亜門さんも、途中からどうでもよくなったらしく、さっきから携帯をいじりながら適当に相づちをうつ並行タスクモードに移行している。と、横から声がかかった。ペットボトルの紅茶を啜っている女、岡崎冬姫おかざきとうこだ。
「で、でも、結構美人なんでしょ? 写メとかもってないの?」
「あのね、知り合ったばっかで、写真とか撮るわけないだろ……。あと、美人っていうか、どっちかっていうと可愛い系かなあ……」
「う……可愛い系かあ……」
 亜門さんにかわり、岡崎がやたらと根掘り葉掘り聞いてくる。亜門さんと並ぶと小さく見えるが、同年代の少女より随分と――実際僕よりも――高い身長に、背中まで届く長い髪。モデル体型に、ぴっちりしたTシャツと細いジーンズがボディラインを強調していて人目を引く。目つきの鋭さもあって、凛々しい、というのがぴったり来る、掛け値なしの美女だ。
 彼女は高校の同級生で、卓球部でも一緒だった。僕が男子部の、彼女が女子部の副部長。コートの使用調整や部費の分配でよく打合せをしていたので喋る機会も多く、だいぶ仲良くなった。高校時代の数少ない、そして付き合いが卒業後も続いているほぼ唯一の女友達である。ちなみに彼女は浪人でも何でもなく、現役で地元の大学に通っているのだが、何の嫌がらせか週に二、三度は予備校に来て、僕をからかっていく。それでいつの間にか亜門さんと仲良くなったらしい。時々二人でなにやら話をしていることがあったし、僕はこの二人が付き合っているのではないかと疑っている。今日も、僕と楓子の話を聞きつけた亜門さんが岡崎に連絡を入れ、僕をつっつきに来たのだとか。まったく迷惑な話である。
「だーいじょうぶやて、トコちゃん。安心しぃ。こいつが俺から借りてくの、だいたいスラッとした美人系のモデルが出てるやつや。どっちか言うたらトコちゃんのがストライクゾーンやと思うよ」
「ちょっ! 亜門さん、何言ってるんですか!」
「そっ、そうですよ! 私は別に!」
 二人して立ち上がった。思わず出た大声に、僕は顔を赤くして席に着く。
「エ、エンタローは、その、ス……スラッとしたのが、いいの?」
「い、いや! 僕は岡崎が好みとか、そういうわけじゃないから!」
「そ、そっか……」
「いやいや! 別に好きじゃないとも言ってないし! っていうか何だよこの流れ!」
「あ~、俣野っち。さすがに、本人目の前にして今のは無いわ。減点や」
「あんたがややこしいこと言うからでしょうが!」
「ん~、青春やねえ」
 ことの元凶は、楽しそうにそう呟きながら、コーヒーを飲み干していた。

「ポテトならロッテリアでしょ……」
「えぇ? マクドのが美味しいよ」
「マックのポテト、ベトベト。ふにゃってしてるし。ふにゃって」
「それって、二回言うほど大事なこと?」
「大事大事。ポテトは食感が命ですよぉ」
「ロッテリアのは、揚げすぎ。かたくなりすぎて、ありえません」
「あーはいはい、エンタローはふにゃっとしたのが好きなのね。今度からフニャチン野郎と呼ばせて頂きます」
「ふにゃ……って凄い下品なの来るな」
「あはは、エンタロー、このくらいのシモネタで動揺してたんじゃマダマダだね」
 夏休みも半ばに差し掛かった頃、楓子から会わないかと連絡があった。二つ返事で了承したあと、僕と彼女フーコは駅前の喫茶店で参考書をひろげ、ホットケーキを食べながら、他愛のない話に興じていた。

 模試の後、電車の中でアドレスを交換した僕らは、頻繁に連絡をとるようになっていた。彼女は割りと近い場所に住んでいるらしかった。僕も昔そのあたりにいたんだと言うと、へえ、と返事があって、話は続かなかった。まあ二十年近く彼女がいない人間のコミュニケーションスキルなんてそんなものだ。別に無理矢理盛り上げる必要も無かったと思うのだけれど、僕は自分の話術の無さが、情けないような恥ずかしいような気持ちになって、自宅に帰った後、ベッドの中でひとり反省した。次はもうちょっとうまくやろう、と。
「なんだかんだ言って、結局安いからマクドになるんだけど」
「まあねぇー。ポテトこだわっても、単品じゃあ食べないしね」
「ちなみに、ナゲットはバーベキュー派? マスタード派?」
「私はマスタードかな。バーベキューは無いわ。なんか甘ったるいし」
「お、一緒だ。ベタベタしてるのもちょっと微妙だよね」
 本当は逆だったが、僕は嘘をついた(実際は、何となく言いやすいからバーベキューのほうをよく注文する)。ちょっとは空気を読んだ会話をし始めたあたり、話術も少しは上達したと思う。もちろん、ソースの種類なんてほんとうはどうでもよかった。僕はただ、彼女と話をしていることが楽しかったのだ。

「それで、フーコはどうだった、判定?」
「ぼろぼろでーす。夏になってこれもらうと、ヘコむわね」
 と、あまりヘコんでいなさそうな表情で彼女は笑った。楓子の成績は、なるほど確かに「ぼろぼろ」だった。第一志望から偏差値ではぐっと下がる大学でもC判定。第一から第三までの志望校は、軒並みDだ。クラス分けがある僕の通っている予備校なら、上のクラスには残れなかっただろう。
「ん。でもまだまだこれからじゃない? 《夏が勝負》って言うし」
「春には、《スタートダッシュ》って言われて、秋には《秋からが本番》って言われてるんですけどねー……」
「まあね」
「エンタローもやっぱり、私じゃ東都大は無理だと思う?」
 僕は、コップを手前に傾け、底に溜まった水をストローで啜った。
「うーん、どうだろう。僕も二回落ちてるから、何とも言えないんだけど、DでもEでも、通るヤツは通るからなあ」
「そりゃそうだけど」
 反応をみていると、無理して東都を目指す理由が何かあるようにも見えないが、それでも突っ込んだ話しをするのが憚られ、「どうして東都をめざすの?」とは訊けなかった。
「フーコが行きたいと思って頑張れば、いくらでも挽回できるんじゃない?」
「うわー、無難。優等生の返答だよ。じんましん出そう」
「何だよ、一応慰めたつもりだったんだけど……」
「慰めになってないし。ほんとにエンタローって無神経だよね~」
 フーコが分かりにくいだけだと思うけど、という台詞が喉まででかかったが、辛うじて飲み込む。僕らの関係は、どう考えても良い友達という感じで、楓子は随分フランクに接してきていたが、僕としてはこの可愛らしい女の子と話していて、何の下心も抱かないわけではない。だから、最終ジャッジで減点されそうな発言は控えたつもりだった。
「そっちはいいよねー。B判出てるし。私も一回でいいからAとかBとか出してみたいよ」
「まあ僕は二浪だからなあ。アドバンテージある春・夏にBじゃ、ぶっちゃけ微妙だよ」
「ぶっちゃけ微妙だよゥ」
 僕の真似のつもりだろうか、口を尖らせて彼女は言った。
「この判定ブルジョワジーめ。プロレタリアートなめんじゃないわよ」
 どうにも返答に困るような毒を吐くと、彼女は左手に持ったグラスをどん、とテーブルにおいて、芝居がかった口調で僕を睨んだ。判定ブルジョワジー、という言い方が面白くて、思わず噴き出す。と、そこで楓子は急に立ち上がって芝居がかった態度で両手をテーブルにつき、僕に顔を近づけて、低い、絞り出すような声で言った。
「おい地獄さ行ぐんだで!」
 挑むような目つきが僕を捉える。けれど、僕には突然のことでわけがわからず、苦笑するしかない。
「なにそれ」
「むかーし、読書感想文書いた本のセリフ。妙に印象に残ってんのよね」
「へぇ。そんなの覚えてるんだから、やっぱりやればできそうだけど」
「んー、やってはいるんだけどねぇ……」
 言いながら楓子は、何度も手袋の上から右手をなでていた。この頃わかったのだけれど、これは彼女が、何か悩んでいる時の癖だ。次の話があるのかなと身構えたけれど、結局彼女はそれ以上何も言わず、微妙な空気のままでその場はお開きとなった。

 楓子と会ってみたい、という亜門さんと岡崎の頼みを、僕は頑なに拒み続けていた。最初はただ面倒なのと、二人にからかわれるのが嫌だという理由だったが、少しずつそれが別の理由に変わっていることを、僕自身気づき始めていた。別に特別なことはしなかったけれど、彼女といると楽しい。その楽しい時間を邪魔されたくない、という思いが段々強くなっていったのだ。
 僕と楓子は、古本屋で別々に本を読んで、昼時になったら近くで昼を食べ、あとは適当に一日を過ごすのが殆ど。時々買い物に行ったり。カラオケに行くこともあった。予備校をサボって遊んでいるときは、どこか後ろ暗く、心につっかい棒が引っかかっているような気がして、一日の終わりに暗い気持ちになることが多かった。何かから逃げている。そんな声がどこからともなく聞こえていた。でも彼女と遊んだ後は、そんなことは気にならない。僕の毎日は充実していた。

 僕らは厳密にはつきあっているとは言えない状態だったけど、実質、それに近いと僕は考えていた。たとえば、待ち合わせ。はっきりと待ち合わせはしなかったけれど、僕は十一時半頃に店に行く。そうして、いつからいたのか、いつも僕より先に店にいる楓子が、僕が来る時分を見計らって棚の奥から顔を出す。その後十二時を過ぎるくらいに、申し合わせたようにエスカレーターの前に集まって食事に行くのだった。彼女は、亜門さんや岡崎をはじめとする、学校や予備校の友人たちとは何か違っていた。特別に感じられたのはもちろん、年の近い異性と二人きりで遊ぶという状況のせい、ということはある。でも彼女といると、同年代の女の子である岡崎と一緒にいるときには感じないような、不思議に高揚した気持ちになった。楓子は、屈託無く振る舞っているように見えても、どこかで一歩踏み込ませないようなところがあり、年齢に似合わないような、大人びた表情を見せることがよくあった。それが僕を惹きつけたのかもしれない。当時の僕はそれを自覚し、そして自分は多分、彼女が好きなのだと、そんな風に思っていた。

 夏期講習が終わって、予備校が始まる九月二週目までの短いインターバル期間も、僕らは相変わらず古本屋で集まっていた。昼を食べた後で僕は彼女を遊びに誘った。あれこれ相談して、結局無難にカラオケに行くことになった。

 カラオケボックスの中で、僕らつきあってみないかと、冗談のように僕は告げた。

 随分唐突な流れだった記憶がある。どうしてそんなことを言おうとしたのか、今では全く分からない。言わなければ僕らの関係は、もう少し変わっていたかもしれない。けれど僕は、そんなことばを口にしてしまっていた。
 彼女はちょっと目を見張り、そのまま、うんともいやとも言わなかった。ただ困ったような怒ったような、笑いそうな泣きそうな表情で僕を見た。一瞬の間があって、それから楓子は静かに首を振った。

 そっか、と僕は呟き、心臓から伝わってくるきりきりとした痛みを我慢しながら下を向いた。この場をどう取り繕おう。この期に及んで僕の頭を埋めたのは、そんな思考だった。
「理由を聞いて良い?」
 そう、僕は訊ねる。彼女は少し俯いて、それから笑って顔を上げ、まっすぐに僕を見る。少し青ざめた顔には、余りにもこの場に不似合いな笑顔が張り付いていた。唇がゆっくりと動き、ちょっと見せたいものがあるの、と押し殺した声が漏れた。
「私の、ね」
 笑いを顔に貼り付けて、彼女は左手で、右腕の付け根をぎゅっと握った。指の先には、いつも彼女がつけている長い手袋。彼女はそれに手をかけて、強く引く。白い長手袋にすっと皺が走り、パチン、と金属のこすれる音がした。それから、何かがスコン、と抜けるような気配。僕は、ぼんやりとその光景を眺めていた。彼女の口から、静かに音が漏れた。低い、けれどはっきりした声が、僕の耳に届く。

「私の右腕、ドラゴンなんだ」

 白い衣を取り去った彼女の右腕。二の腕から先には、何もついていなかった。

 いや、ついていないように見えた。よく目を凝らせば、二の腕の辺りから急激に腕が細くなって――というよりも。彼女の二の腕から先には、金属の棒が生えている――。

 義手、ということばがようやく思い浮かぶ。流れていた騒々しい曲はいつの間にか終わり、今月の新曲とかいうCMが画面を占領していた。お笑い芸人が能天気に画面の中で踊っている。僕は目をつぶり、深く息をついた。義手というのは、もっと人間の手に似てると思っていたよ。そんな感想が思い浮かんだがが、義手のことに触れるのが躊躇われ、結局僕は何も言わず、何度も自分の唇をなめた。

「驚いたでしょ……。ごめんね」
 彼女が何に対して謝っているかわからない。そして、自分がどう反応していいかもわからない。何が正解なのか――。ぐるぐると回る思考の中で、僕はとりあえず首を振ってみた。
「気持ちは、凄く嬉しいんだ。私も、エンタローのこと、嫌いじゃないし。でも私はさ、普通じゃないから……だから、ごめんなさい」
 そう言って不自然なくらい明るく笑う。いつもの屈託のない笑顔ではない。どこか、作られたような顔。何か言おうとしたけれど、僕の声は喉の奥に引っかったまま出てこない。
 気まずい沈黙が続く。どうして良いか判らず、じりじりするような時間が流れていく。仕方なく僕は、楓子の腕を観察した。よく見ると、彼女の腕の先端は少し丸く膨らんでいる。
(竜の顎だ)
 ぼんやりと、そんな考えが浮かぶ。右腕がドラゴン。彼女の表現に、僕は妙に納得した。顎から少し上の方、何かの器具を引っかける為のものだろうか、小さな穴が空いている。たとえるならば、あれは眼だ。カラオケボックスの紫色の光の中に浮かび上がった彼女の右腕は、奇妙な存在感をもって、僕を捉えた。

 実のところ僕は、手については何とも思っていなかった。

 うろたえていなかったと言えば嘘になる。でもそれは、竜の目に射すくめられた恐怖。いわば本能とか反射とか、そういうレベルの反応だ。彼女の腕については、綺麗だとか醜いとか、そういうことは本当に何とも思わなかった。あの時に僕が考えていたのは、ただ、どうすれば僕が、何とも思っていないことを信じて貰えるかということだった。

(何て言えばいいんだろう)
 僕は、必死にそれだけを考える。何と言えば、僕は楓子に嫌われなくて済むのだろう。頭を埋め尽くしたのは、そんなことだった。そんなことでしかなかったのだ。このまま黙っているのはまずい、何か言おう。そう決心して、僕は無理矢理口を開いた。
「ああー……何て言うか……」
 呻くような、自分の声がやけに遠くから聞こえる。笑顔でこちらを見る彼女と目があって、僕は覚悟を決めた。
「別に、気にしなくて良いと、僕は思うけど」
 変なことばを使わないように、気を付けて。
「僕は、気にしないし。あんまり。実際」
 彼女に、嫌われないよう、ことばを選んで。
「僕も小学校の頃、身長低くてからかわれたし」
 けれど、そもそも選べるはずもなくて。
「いや、それとは全然違うかも知れないけど」
 やめておけば良いのに、喋るのを止めることが、どうしてもできない。
「外見とか、身体的特徴とかって、そんなに重要なことじゃないし」
 自分の声と、血の流れる音が、遠くからやけに大きく聞こえる。
「いや、手が片方無いっていうのは大変なことだと思うし、僕にはその苦労とかってわからないんだけど」
 頭のどこかが痺れたようで。
 最早何を喋っているかはっきりしなかったが、饒舌になっている自覚はあった。仕方なくことばを切って、取り繕うように笑う。――たぶん、いま僕の顔はこわばっているだろう。こうなったらせめて、目だけは逸らさないようにしよう。どうしてか、そう思った。
 やけに手がぬめると思ったら、ささくれをいじりすぎて、右手の親指から血が出ている。僕は舌打ちして、その血を乱暴にジーンズで拭う。ことばを重ねても――むしろ重ねれば重ねただけ、言いたかったこと、伝えたかったことが分からなくなっていくような感覚に、僕は支配されていた。彼女はひと言も口を利かず、静かに僕のことを見て――やがて僕らはまた無言になった。

 どのくらい経ったのか。カラオケの残り時間を知らせるコールがかかり、僕は我にかえった。のろのろと手を伸ばして受話器をとると、何事かわめく店員に短く返事をして電話を切る。立ちあがったたまま、注文用のリモコンを籠に入れ、備え付けのタッチパネルをスクリーン横の充電器にはめこんだ。その隣にマイクを戻す。それから僕と彼女は、無言で部屋を出た。

 カラオケボックスの外で、彼女はすっと右手を差し出した。よく見ると、関節がうまく曲がっていない。長手袋の上からでも、不自然な太さがわかった。僕はこれだけ長い間一緒にいて、こんなことにも気づいていなかったのか――。彼女の手を握りながら、そのことに、僕は愕然とした。
「うん……。ありがとう」
 どういう意味の「ありがとう」なのか。僕は聞き返すことができなかった。
「じゃあ、バイバイ、エンタロー」
 彼女はすっと右半身を引く。彼女の右手が、静かに、僕の手から離れて行く。

「さようなら、フーコ――」

 楓子の右手の手袋を強く握る。乾ききっていなかった親指の血が、真っ白な手袋に赤い模様を付ける。彼女は最初に言葉を交わしたときのように、左手をひらひらっと振って、夜の大通りを駆けて行った。あの時と同じく、アリスのように。不思議の国へ飛び込んでいく、ひとりぼっちの少女。追い掛けることも立ち去ることもできない僕は、じっとその場に立ちつくす。

 今振り返ってみると、この時の別れのことばが、僕が楓子に向けた中でたぶん一番きちんと伝わったことばだったのではないかと思う。そして僕らはその後二度と、古本屋で出会うことは無かった。

「なるほどね~。そんなことがあったんか」
 楓子と会わなくなって二ヶ月が過ぎた。
 十月の模試を終えた後。駅前の喫茶店「凪沙」で僕は亜門さんと岡崎に、ことの顛末を話していた。もちろん、楓子の義手のことは黙っている。二人には、ある秘密を楓子から打ち明けられた、ということで納得してもらった。
「まあ、俣野っちらしい誠実さっちゅうか、不器用さっちゅうか……」
 黙って僕の話を聞いていた亜門さんは、そう言うと、困ったように頭を掻いた。
「自分でも言うとったけど、俣野っちは、その娘の秘密自体は、全然問題なかったんやろ?」
「ええ、それは。もちろん、責任とか将来とか、そういう話になると別ですけど……」
「まあ、お付き合いしましょっちゅう段階からそこまで考える必要は無いわな。……あ、おねーさんすんません、お水おかわりちょーだい」
 愛想良く近づいてくるウェイトレス嬢にコップを差し出し、水が注がれるのを待って、亜門さんは続けた。
「で、だ。俣野っちとしては、そのことは伝えたつもりやったのに、なんで振られたのかわからん、と。ついでに、どない言えばよかったんか、あるいは、も一回自分が気にしとらんて伝えるにはどないすればええか相談したい、と」
「……はい。未練があるとか、そういうんじゃないんです。ただ、僕は、彼女のその秘密を、何とも思ってないっていうことを――その秘密は、気にすることは無いんだっていうことを、伝えるべきじゃないかと思って」
 ふうむ、と亜門さんは右手を頬にあてて唸った。
「多分やけどな、俣野っちのその気持ちは、その――楓子ちゃんやっけ? っていう娘に、キッチリ伝わっとると思うよ」
 僕は思わず顔を上げる。
「俺も確証があって言ってる訳じゃないんやけどね~」
 ポケットからタバコを取り出して、火を付ける。煙を天井に向かって吐き出しながら、亜門さんはゆっくりと目を閉じた。
「俺は馬鹿やから、上手く言えへんねんけど」
 一息吸っただけのタバコを灰皿にこすりつけ、上体を起こす。
「多分、俣野っちも楓子ちゃんも、遠慮しすぎたんやと思うわ」
 意外な言葉に、僕は耳を疑った。
「遠慮、ですか……?」
「そそ。さっきから話を聞いてるとさ~、俣野っちは、単に自分がその秘密を気にせえへんて伝え損なっただけやなしに、楓子ちゃんを傷つけてしもたと考えとるやろ?」
 見透かすような亜門さんのことばに、どきりとする。子供じみた反抗心が首をもたげ、否定しようかと思ったけれど、思いとどまって素直に頷いた。
「俺にも覚えがあるから分かるんだけどな、相手のことを思いやってるつもりで、実は自分のことしか考えてへんかったんちゃうかとか、まあ、そんなこと、考えちゃうワケや」
「…………はい、その通りです」
「そらそうかもしれんよ。仮に全部その通りやとしよか。でもさあ、それやと一体何が悪いんやろ? 相手のことを考えず、自分のことを考える。人間、誰かてそうやん。それをアカン言うたら、俺らどないしょうもあらへん」
「いやでも、人を好きになるっていうのは、互いに尊重し合うっていうか……」
「まあ、そういう考え方があるんは否定せんわ。綺麗事やと、俺は思うけどな。人を好きになる言うんは、お互いに遠慮しあうことか? せやったら、自分が好きになった娘に、好きな人がおったら簡単にあきらめるんか?」
 そこで一旦言葉を句切り、背もたれに体重を預ける。
「そうやないやろ。自分が好きで好きで、しゃあないからアタックかけるんや。少なくとも、俺はそうや」
 ちらりと岡崎のほうを見遣って、亜門んはことばを続けた。
「俣野っちはな、我が儘さが足りんのや。ホンマに好きやったら、相手がどない言おうが押し切るくらいのことせなあかん。ああ、勘違いすんなや。俣野っちの想いが偽物や言うわけやないで。それは、今の様子見とったら分かる。けどだからこそ、その気持ちを、もっと素直に出せばよかったってことや」
「素直に、ですか……」
「せやせや。その楓子ちゃんも気づいとったんやろ。俣野っちは優しすぎるから、自分に遠慮し続けてまう。そない考えたんとちゃうか?」
「そんな……」
 予想外の解釈に、僕はしばし呆然となる。僕はてっきり、僕が彼女のことを考え足りないせいで、振られたんだと思っていた。でもそうじゃなかったのだとすれば――。
 どうすれば良かったんですか、そう訊ねようとしたところで、それまで黙って俯いていた岡崎が、急に顔をあげて亜門さんのほうを向いた。
「でも田中先輩、それだと、楓子さんもエンタローに――」
「まあ楓子ちゃんは楓子ちゃんで、我が儘になりきれへんかったんやろかなぁ。それとも逆で、思いっきり我が儘やったんかもしれん。そこら辺は、実物見たことないからわからんわ」
「そんな……」
 言いようのない思いに打ちのめされる僕の肩を、亜門さんはぽん、と叩いて片眼をつぶる。
「まあ、今のは俺の勝手な考えや。あんまり気にせえへんでええやろ。けどな」
 これだけは覚えとけ、と真面目な顔で僕の胸に拳をあてて、言った。
「我が儘になりすぎたり、なれへんかったり、恋愛には色々ある。それが縁ちゅうヤツや。俣野っちと楓子ちゃんは今回、縁がなかった。残念ながらな。せやかて、縁は消えたワケやない。今は無理でも、どっかでまた縁ができるかもしれへん。そん時のために、後味悪い別れ方だけは、せんように気いつけ。言い残したことがあったら、しんどくても辛くても、伝えとけ」
「あちこちで縁を切りまくってる亜門さんにだけは言われたくないですよ」
「アホか」
 ぱしん、と僕の頭を平手ではたくと、気の良い先輩は人なつこい笑みを浮かべた。
「俺が言うから説得力があるんやんけ。」
「なるほど。ご忠告、肝に銘じておきます」
「おお。まあ憎まれ口叩けるなら大丈夫やろ。話聞く限り、楓子ちゃんはええ子や。そんな娘との縁は、切ってしもたら勿体ない。ほんでまた縁ができたら、俺に紹介してくれ」
「二ヶ月経ちましたからね……多少は耐性もできてますよ。ショックではありますけど」
 亜門さんはニヤリと笑い、「ほなこれで」と言って立ち上がった。そうして伝票に目を通すと、懐から五千円札を取り出して伝票に重ね置く。
「今日は俺のオゴリでええわ。これからの応援っちゅうことで」
 そうしてドアへ向かう途中、一瞬立ち止まった亜門さんは、僕の勘違いかもしれないが、またちらりとこちらを振り返り、一拍おいて大きく息を吐くと、手を振って喫茶店を出て行った。後には僕と岡崎が二人で残される。喫茶店のBGMが切り替わり、スピーカーから懐かしい邦楽のアレンジが流れはじめた。

 亜門さんが喫茶店を出て行った後、僕らはしばらくの間、向き合って所在なげに黙って座っていた。十五分くらい過ぎた頃だったろうか。話があるの、と岡崎が切り出した。正直、話をする気分ではなかったが、わざわざ僕の話につきあってくれたことに感謝していたのと、帰ったはずの亜門さんからメールで「岡崎ちゃんにようお礼しとけよ~」というメールが届いたのとで、頷くしかない状況だった。
「ここじゃちょっと言いにくいんだ。外、出てもいいかな」
「ん、分かった」
 僕らは亜門さんの置いていったお金で会計を済ませ(釣り銭は後日返すことにして、僕がうけとった)、外に出る。時間は五時半を少しまわったところで、既に日が傾き始めていた。公園へ行こう、と言われ、並んで歩く。薄いグリーンのタイトセーターの上からライトブルーのジャケットを羽織り、スキニーデニムにブーツという出で立ちの岡崎は、正直、男の僕よりよほど格好いい。十月の少し冷たい風が首筋を吹き抜けて、僕は羽織っていたダウンジャケットの襟を立ててボタンを留めた。

 予備校とは反対の方へ二十分ほど進み、目的地に入る。薄暗くなったせいか、いつもは人でごった返している公園に、人はもうほとんどいなかった。ベンチに座るのかと体を向けたけれど、岡崎はさっさと噴水の方へ歩いていってしまう。僕も慌てて後を追った。時計の長針が、丁度十二の位置を指す。六時。時報とともに、噴水の水が勢いよく吹き上がり、イルミネーションに光が点った。
 光に照らされた岡崎の顔を、僕は見上げた。彼女は目を閉じて二、三度小さく口で息をすると、ゆっくりと目を開く。楓子を思い出させるような、まっすぐな視線が僕を射抜いた。噴水から「白い道」(ヴィヴァルディの『冬』第二楽章というのが正式名称だと、後で知った)の曲が流れる短い間、岡崎と僕はじっと互いを見つめていた。やがて曲が鳴りやみ、水の噴きあがりがおさまると同時、彼女は僕に向かってはっきりと言った。

「俣野君、好きです。つきあってください」

 ゆっくりと、しかしはっきりと、ことばが僕の頭と心に染み込んでくる。店を出た時から、予感はあった。それでも聞かずにはいられない「なぜ」という問いは、続く彼女の声にさえぎられ、僕の口は半開きになったまま動きを固定された。
「部活でさ、みんなが帰ったあと、エンタローずっと一人で素振りしてたでしょ」
「知ってたのか」
「そりゃそうだよ。女子部の鍵掛けてるの、私だよ。女子は更衣室使ってるから、男子が帰った後で、鍵係が部室に戻るの。戻ったらいっつも、エンタローがいるし」
「なるほどね……。まあほら、僕はあんまり上手くなかったから。友達も少なかったし」
 嘘ではない。もともと運動神経がそんなに良くない僕は、高二になってもレギュラー争いのボーダーラインを彷徨っていたし、団体戦の補欠に登録されてはいたものの、明らかに実力は劣っていた。当然、戦績がステータスとなる高校部活動の中では人間関係もうまくいっていなかった。副部長になったのも、面倒な仕事を押しつけられたに過ぎない。夜残って練習していたのは、上達したかったからというのもあるが、部活の仲間や後輩と一緒の時間に帰るのが単純に嫌だったからだ。かといって早退すると余計に疎まれるし、帰る時間をずらすには居残りで練習するしかなかった。
 でも卓球は好きだった。好きなのに、上達しないのが悔しくて、誰かに認めてもらいたくて、僕はあがいていたのだ。
「私も、そうだったんだ。ほら、私、バレーやってたから」
「ああ……」
 身長も高く、運動神経の良い岡崎は、中学時代そこそこ有名なバレーの選手だったと聞いたことがある。
「怪我で、できなくなったんだっけ」
「うん。膝をちょっとね。それで、身長を活かせるからって先輩に誘われて入部したの。でも本気でやるつもりも無かったし、いつかはバレー部に戻るって、そんなこと周りに言ってたんだ。だから、卓球部ではあんまり良く思われてなかった」
 それはそうだろう、誰だって、自分が真面目に取り組んでいるものを腰掛けのように扱われていい気がするはずもない。
「だから、エンタローのことも最初は馬鹿にしてたの。卓球みたいなのに一生懸命になって、バカみたいって。しかも下手だし」
「下手はひどいなあ。自己申告の通り、『あんまり上手くない』って言ってくれよ」
 岡崎はくすっと笑った。
「じゃ、訂正。『あんまり上手くなかった』。でも、引退試合の団体地区予選、ベスト四決めた、あの試合」
「引退……って明城との……?」
 高校最後の団体戦、僕は一度だけ出場のチャンスに恵まれた。相手は第一シードの明城高校。ほとんど消化試合のつもりだったのだろう。でも、先鋒で出た僕が、接戦の末、相手の一番手を飛ばして一勝をもぎ取った。その勢いで、僕らは明城に勝って県大会に進んだのだ。もっとも、次以降僕の出番は無かったのだけれど。
「うん、あの試合でエンタローが勝つのを見て、すごいなって思ったの。ほんとに、ドキドキした。それで、何の努力もせずにふてくされていた自分が恥ずかしくなった」
 僕は黙って、岡崎のことばを聞いている。答えが決まっていたからだろうか、生まれて初めて告白を受けているというのに、心は、ひどく穏やかだった。
「ま、それからさ。エンタローのことが気になるようになっちゃって。ずっと見てた。そんなわけで、その、好き……なんです……」
 最初の勢いはどこへやら、次第に語調は弱くなり、最後は消え入りそうな声。けれど僕から目を逸らすことはない。真っ赤な顔の岡崎に、僕は静かに訊ねた。
「きっかけは分かったけど、僕は今や、浪人して、ふらふら遊んでるようなヤツだぞ? 最初のイメージとかけ離れて、幻滅しなかったのかよ」
 岡崎は笑いながら首を振った。
「全然。これは田中先輩の受け売りだけど、エンタローはさ、自分で、本気になる理由が見つからないと頑張れない人間なんだよ。無理矢理やらされてるうちは受験勉強には身が入らないだろうって。それに、別に受験がダメでも、エンタローが根は真面目で、優しくて、一緒にいて楽しい人だってことは、変わらない」
「なんか、出来の悪い息子を無理矢理褒めてる母親みたいだな」
「そうかも。ほんとに出来は悪いし」
「うるせー」
 右手を岡崎の目の前にかざし、デコピンを入れる。奇妙な叫び声をあげて抗議してくる彼女を無視して、僕は空を見た。冬の夜は早い。さっきまでまだ薄暗い程度だったのが、今はもう真っ暗で、微かに星が瞬いている。
「てっきり、岡崎は亜門さんが好きで、ここに通ってるんだと思ってたよ」
 言うと岡崎は、赤くなった額を押さえながら口許をほころばせた。
「そんな風に勘違いしてるんだろうなって、田中先輩と二人で言ってたよ」
「亜門さんのところで時々話してたのは、僕のことだったのか」
「そういうこと。女心のわかんない、ニブチンのエンタローをどうやって振り向かせるかという作戦会議なのでした。まあ、その鈍さのお陰で、私にもチャンスが巡ってきたみたいだけど」
 そう言って岡崎は口を開き、上を向いてはあっと息を吐いた。白いかたまりが、一瞬だけ浮かび上がり、夜空へ吸い込まれる前にかき消えた。
「返事を、聞かせてもらえますか」
 僕は頷いて、一歩岡崎から距離をとると、彼女の目を見つめたまま「ごめん」と言った。岡崎冬姫のことは好きだけど、それは友達としてで、恋愛対象と考えたことは正直無かった。それに、まだ楓子のことが僕の心にある。そんな状態で別の誰かとつきあうことは、僕の心を裏切り、楓子を裏切り、その別の誰かをも裏切る、不誠実で申し訳ないことような気がしたのだ。
 岡崎の瞳が大きく揺れる。けれどそれは一瞬。すぐ、なにごともなかったかのように元に戻る。僕は断ると同時に頭を下げるつもりでいたが、その瞳から目を逸らすのが躊躇われて、タイミングを失ってしまった。
 そっか、とかすれた声が彼女の喉から漏れた。何度か瞬きを繰り返し、首を振って天を仰ぐ。その目から、涙が一気に溢れて彼女の頬を伝った。
「あ~、ダメだ、泣かないって決めてたんだけどな」
 笑いながら、震える声でそう呟く。僕は何も言うことができず、そんな岡崎をただ見つめていた。僕は楓子に振られたとき、どんな顔をしていたのだろう。胸がちくりと痛んだ。
「だいたいさ、振られてすぐの相手に、言う話じゃないよね」
「まあ……すごいタイミングではあるよな」
「もっと時間をかけて弱っているところにつけ込むとか、色々考えたんだけどさ、やっぱりダメだった。田中先輩の話を聞いて、今しかないって思ったんだ」
「亜門さんの?」
 涙が止まらなくなったのだろう。岡崎は袖口で顔をぬぐった。
「我が儘に、ならなきゃだめだって」
「うん」
 しゅん、と小さく鼻を啜る音がする。
「それが受け入れて貰えなくても――ううん、受け入れて貰えるかどうかなんて本当は関係なくて、とにかく伝えたかったの。でないと、始められないから」
「始める?」
 オウム返しに僕は訊いた。
「うん。私の恋を。誰にも遠慮しない、私の恋」
 泣きながら――岡崎は笑って僕の方を向いた。相変わらず涙はぽろぽろ落ちていたし、目は真っ赤だったけれど、その表情はどこか清々しく僕には見えた。
「私の気持ちは、このくらいじゃ止まんないの。一度振られたくらいじゃ、私はあきらめられないから。だから、これからもエンタローに近づきます。そのつもりで、友達に戻らせてください」
 今度は疑問系ではなかった。お願いでもない。恐らくこれは、宣言だ。差し出された岡崎の右手を僕は笑って握り返す。その手をぎゅっと握って上下に振ると、彼女は黙って手を離した。
「じゃあ、これからもよろしくって言うことで……私は、ちょっと休んでいくから、先に帰ってもらって良いかな」
「ん、わかった。じゃあまた」
 頷いて僕は、公園の入り口へと歩き出す。さすがにここで、岡崎が先に帰れと言った意味を汲めないほどの唐変木ではないつもりだった。公園を出てからそっと振り返る。噴水の前には既に彼女の姿はなく――ベンチで俯いて座っている人影が、街灯の薄い光の下でぼんやりと見えた。僕は大きく息を吸い込むと、駅への道を歩き出す。亜門さんが言おうとしたこと、楓子が僕を振った理由。それらが、何となく分かった気がした。

 僕の中に芽生えたこの想いを伝えるということに、手遅れはない。もうそれは恋とは呼べない、何か違う想いの形かもしれないけれど。そう考えて僕は、携帯電話を取り出す。二ヶ月ぶりにアドレス帳から楓子の名前を見付けると、短いメッセージを打ち込んだ。届かないかもしれない。でも、どうしても、彼女に伝えたい一言があった。それは、別れ際、僕の言えなかったことば。

 短い五文字を書き込み、僕は祈るような気持ちで送信ボタンを押した。

 結局僕はその冬の受験で第一志望の大学に合格し、東京に行った。その年の暮れに、楓子が地元の私大に合格して、そこへ通っていると亜門さんに聞いた。どうやら、彼女の情報を集めてくれていたらしい。
(あれからもう四年か――)
 懐かしさが、甘い痛みを伴って胸を締め付ける。たぶん、僕は今でもまだ、彼女のことが好きだ。むしろ、今になってはっきりとそう思う。でもその「好き」は、恋じゃない。あのときのことを思い出すたびに、僕の胸に訪れる、この気持ちは、恋ではない「好き」だ。そう言ってみると、なんとなく腑に落ちるように思えた。

 楓子は何故、手袋をしていたのか。どうしてずっとあの場所で本を読んでいたのか。どうして東都大を目指していたのか。僕は、彼女のことを何も知らなかった。彼女と一緒の空間にいたけれど、自分のことしか見ていなかった。彼女に振られて、僕はようやくそのことに気づいた。彼女に恋をしていたとき、僕は彼女のことを考えているつもりで、自分のことばかり考えていたのだ。それはとても滑稽で、でも僕は今でも、そんなかつての自分を笑うことができない。

 楓子の心の中を、僕は覗きたかったはずだった。僕が彼女に踏み込めなかったのは、彼女のことが分からなくて、拒絶されるのが怖かったからだ。でも、他人のことが分からないなんて、そんなのは当たり前のこと。僕も彼女も、お互いが何を考えているのか分かるはずがない。ならばいっそ、怖れを振り切って踏み出せば良い。それでよかったはずなのだ。今の僕は、そのことに気づいた。伝わるかどうかではなくて、伝えようとするかどうかだ。我が儘になれ、という亜門さんの助言は、恐らくそういうことだろう。考えなんて分からなくても、彼女に近づけたはずだった。でも、僕は彼女に踏み込もうとしなかった。あのとき、彼女はどんな気持ちで右の手袋を外したのだろう。それを訊ねてみたい。無性にそう思った。

 秋晴れの空。昔のままの彼女のアドレスから届いたメールを見て、僕は久しぶりに――だけど鮮やかに、彼女のことを思い出す。

「お久しぶりです。私のこと、覚えていらっしゃるでしょうか。もしかしたら届かないかもしれないと思いながらメールを書いています」

 そんな文面で始まる、何と言うこともない近況報告。およそ彼女らしからぬ、妙に形式張った出だしの一文。次の行から跡形もなく消え去っているのだが。僕は、読みながら笑うのを止められなかった。道行く人が、ときどき気味悪そうに僕を見る。その視線には気づいたけれど、そんなものは気にならない。

「あの時、最後にくれたメールの返事が、こんなに遅くなってしまってごめん! ほんっと~にごめん! でも私も気持ちの整理がつかなかったんだよ~。笑って許して」

 彼女の右腕には、ドラゴンが住んでいた。蜥蜴に、あるいは蛇に似たその怪物は、洞窟の奥に身を潜め、財宝を守っている。その名はギリシャ語で、《明らかに視る者》を意味するという。
 竜は、彼女を守っていたのだ。そして彼女は、竜に護られたお姫様。僕はその竜を倒す勇者にはなれなかった。

「いや~、ずっと迷ってるうちにどんどん返事しづらくなってさ……。でも今度就職で九州に行くことになったんで、これを逃すとまたしばらく会えなくなりそうなの。報告も兼ねて、積もる話をするチャンスかなって。そっちの都合もあるだろうけど、年末年始で会えないかな?」

 メールの文面に、かつての屈託は無い。ようやく、彼女は自由になったのだろうか。だとすれば、彼女を守る竜は、倒されたのか。それとも洞窟から、どこかへと飛び去ったのだろうか。

 高く蒼い空を見上げながら、僕は返信の文面を考える。
(そうだ、どうせなら冬姫も呼ぶか)
 楓子に会いたいと言っていたのは冬姫だし、今更怒ることもないだろう。それに最近は僕が卒論の準備とかで会える時間が減ったせいで、文句が多い。会う口実にもなって一石二鳥というヤツだ。どうせなら、亜門さんにも連絡して、四人で会うのも良いかも知れない。
 思いつけば、それはとても名案に思えた。少なくとも二人は喜んでくれる。楓子は驚くかも知れないけれど、返信に四年もかかったのだから、そのくらいの我が儘は許して貰おう――。

 話したい、たくさんのことがある。たくさんの訊ねたいことがある。どんなことばを尽くしても、全て伝えることはできないだろう。けれど、それで良い。

「最後に私からも。私こそ、ありがとう」

 そう締めくくられたメールを閉じて、返信を打ち込む。彼女はもしかしたら忘れているのだろうか。僕のメールは、別れ際彼女に貰った一言への、返事のつもりだったのに。次に会ったら、そのことをきっちりと説明してやらねばなるまい。左手で軽快に文字を打つ楓子の姿を思いながら、僕は空を見上げた。

(終わり)