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【昔の私】
今、私の住んでいる土地は、地球上にはあるが土のある地面ではなく、巨大な船舶の甲板の上である。
船舶と言うにも少し問題がありそうだ。我々は船団ないし艦隊を構成する、船舶様の構造体に間借りして生活している。
この船団は元々、とある企業所有の一艘の実験発電船だったのが、いつの間にか設備や会社部分や商業施設が増えていき、今では連結時は連絡鉄道が走る、表面積およそ北海道と同じくらいの島状の構造体になったという。
島としては諸般の事情で一ヶ所に長逗留できないため、四季を通じて補給の為の停泊を除き常に移動しており、通過地域と気候によって密集したりばらばらになったりしている。そのため艦同士の交通事情はさほどよくない。
その他には、船団自体が企業街のため生活面の不自由は基本ないが、国家ではないので本国から出向している警察の手が回らず、治安の不安があることか。それで、船団に存在する数社の警備会社が共同で運用する機関が、賞金稼ぎをもう少し綺麗な言い回しで「派遣警備」と言っている。
私ももれなく登録だけしているが、身分が高校生のためあまりいい稼ぎはない。
祖父から引き継ぎ、祖父の代からの複雑な客(主に会社さん)の相手以外は九割方自分の物になっている銃砲店の経営が一番堅い。
私の名は薬師ルリコという。一応、高校生の身分で生きている。
身分が高校生、というのは何らかのの理由と家庭の事情があったからで、ある時意識不明の重体から目を醒ましたら自分の事を食事や便所の果てまですっぽり忘れ、何とか生活できる程度に回復した頃には各種書類からお前は薬師ルリコであると言われた、というのが主治医、保護者の祖父、警察系警備会社、弁護士、本国の警察に説明された書類上の事実だ。
実際の年齢は定かでないし、金をかけずに自ら確認しようもないから面倒臭くて放っといている。
書類では十六歳、中学校は出ているという。両親は離婚、親権は母。だが母は私を残して早くに病死したそうだ。
癌は若くしてなると寿命がマッハで縮むという。未だ人類は死病を根絶していない。
そんなわけで普通の高校に行く機会を失したし、他人様に家庭の事情を説明するのも面倒なので、通信課程のある高校に籍を置き、たまのスクーリングに宿題を提出したり、可能であれば在宅で試験を受けたりしてそれなりに過ごしている。
私は、人生を静かに過ごし、そのうち幾分金が貯まったら大学に行こうと思っている。その程度のただの小市民である。
ちなみに、今の季節がいつかというと、暦の上ではもうすぐ期末考査がある。
私は暑いのが大嫌いなのに、ここ数日間船団は赤道直下を通過中で、もう暑いったらない。エアコンもフル稼働だ。
冬は氷点下四十度近くまで下がり、夏は四十度以上まで上がる、地面に微妙に揺れのある街というのも、字面だけ見たらなんとも不思議で過酷な環境だ。
そんな過酷な環境下、今日は珍しく店の倉庫までお客が来ている。
店から少し離れた所にある倉庫に往復するのは、防犯上あまりよくないことだと警備会社から言われているが、住宅事情の方が優先するこの船団の共通の問題でやむを得ない。
私の作業場も自室もここだからそんなに夜間の往復はしないし、強盗以上の何かがあったら在庫と心中になって爆発するのではと思っている。
最近店が少々手狭なので、そのうちこちらに店ごと移って来ようと思ってはいるが、まだ引っ越し作業をする踏ん切りがつかないのでほったらかしになっているというのが実際のところだ。
何がそんなに面倒か? 移転の周知がまず面倒だ。
お客は私が店に出始めた頃からちょいちょい来てくれている旧知で、淀谷さんという。この艦からいくつか離れた三十五番艦で、ものすごく訳ありのお友達と一緒に探偵をやっているというが、この人の主な収入源は賞金稼ぎだ。それもデッドオアアライヴの、実入りはいいけど注文も危険度も多いやつ。
そのうち仕事に連れて行ってほしいが、いつも何となくはぐらかされている。
淀谷さんはこの前、一体何をしたのか外装がギッタギタに削られて手が切れる程のダメージを負った狙撃銃を持ち込んで、とにかく使えるように直すか、直らなければ買い換えたいと泣きそうな顔をしていた。
随分長いこと愛用していたそうで、私もだいぶ悩んだが、新調をお勧めせざるを得なかった。
だが説得するのに「中身がどのくらい曲がっているのか」の3Dモデルを作って説明して納得させなければ収まらないほど好きすぎて正直たまげたので、今日はそれと、後任をどれにするか選んで貰ったところだ。
物資に限りのある紛争地域とかじゃないのだから問答無用で新調したらいいと思う。
「……やっぱだめ?」
「ダメですよ。しんじゃう」
「そっかー……ダメかー」
淀谷さんは軽くため息などついてみせながら、倉庫の在庫をおいてあるスペースにするすると勝手に踏み込んでいく。いくら旧知で勝手知ったる他人の家とはいえ、変なところに入られたり、何か危ないことがあってはまずい。
「ちょっと! 淀谷さん、勝手に変なとこ入らないでくださいよ」
「あーごめーん、知ってるからつい」
すたすたと歩いて行ってしまうお客を追って小走りに近づくと、ふと視界と足元がふらりと揺れた。バランスをとりきれず体が傾き、棚の上から頭部直撃コースで工具箱が滑り落ちてくるのが見える。慌てて腕で頭を守ると、違わず工具箱がかざした腕に当たって落ちた。どこかでどさばさと何かぱさつく大きなものが落ちる音がした気がする。
「いで」
中身が散らかる結構な金属音に驚いた淀谷さんが慌てて戻ってくる。
「ルリちゃん大丈夫?」
「あ、大丈夫、腕に当たったから……」
「やだな、随分高い波だった感じ」
この船団は各艦共通して、用途と構造上揺れがほとんど出ないように作られてはいるが、それでも抑えきれない揺れはあるようで、年に一度~数度あるが建物という建物全てが予告なく傾くことがある。今のは多分それだ。
「ラーメン屋とか最悪だなぁ」
「普通に開業時に専用の鍋入れるから大丈夫じゃね……そういえば昼近いな。ルリちゃん昼どうする?」
「奢りならつきあいますよ。そうでなければ家です。でもちょと待って、どこかで何か落ちた……」
音から多分段ボール箱に入った紙束のようなもので、そういうものを積んでいて固定するのを忘れていたのは、私の記憶が確かなら一ヶ所だけになる。
預かり品の隣のスペースにひっそり置いてある、随分前から置いてあり実際使えるのかも判らない謎の自分専用装備一式の、結構な量のメンテナンスマニュアルとパーツリスト。
今時紙の本で用意してある理由が今ひとつわからないが、理由があるとしたら電源の必要な冊子を信用していないか、保管の必要があるかだ。
金網でできた引き戸を開けると、案の定大きな段ボール箱がひとつ落ちて、中身がぶちまけられていた。
「手伝うよ?」
淀谷さんが近づき中を覗き込み、感嘆の声を上げた。
「うわあすげえなあ、これ何、預かり? 誰がこんなの使うの、こんなワンマンアーミーみたいな客いた?」
普通の銃器一式、重火器、ドローン数機、外から判らない様にケースに入れて厳重に封印された大きな何かがいくつか。半透明の白い衣装ケースに入れられた、ビタミンカラーの冬用ニット帽、おそろいの手袋。ごついがヒールのあるブーツ。少しすすけた白いコート。
床に転がった、明らかに女性が販売対象になっているカバーのかかった手帳。等々。
「……女の人?」
興味津々でスペースに入り込もうとする淀谷さんを押しとどめ、私は段ボール箱に紙束を戻すことを最優先した。やはり頑丈な箱に入れて床置きにしておくべきだ。
先月、衣類と冊子の虫干しついでにケースの中身に通電した時、箱をほったらかしたままだったのは少々迂闊だった。
いくら私物で、倉庫内では勝手に扱えるにしても、さすがに客が勝手に踏み込んでくるのはまずい。
「あの、いいです。箱に本入れるだけだからそこで待っててください」
「つれないなー。うん、待っててあげる。重い物持つよ?」
「床置きにしておきますんで……あの、作業場のコーヒー見てきてもらえますか? もしかしたらこぼれてるかもしれない」
ふたつ返事で淀谷さんは倉庫を戻っていった。
そういえばこれらももう年季物だな、と思いながら、私は結構急いで本を箱に詰めた。
床の上の手帳はどこから落ちたか、箱の中には元々入れておらず見覚えの無いもので、挟んだ紙以外の物で太っている。持ってみるとやけに重い。
カバーのホックを開けると、折り返しの所にチャック袋が入っていて、細いブレスレットが二本、おそらく耳の普通のピアス穴を拡張してでかい穴をあけて装着するトンネル用具、そのトンネル穴に嵌めるタイプの機械が両耳分おさまっていた。
世間の人々が大体タブレット端末として使っている道具の小さい奴だ。実際には生体認証でしか起動しない、耐水耐汚耐衝撃ではあるが小さいだけに高価、ピアスの穴の拡張が必要すぎて使える人が限られる、機能が半端、ということであまり売れないので、ごくたまに懲りずに発売されるがいつしか消えていくラインナップである。
本体だけしかない。起動なら眼鏡か何らかのディスプレイが必要に、生体認証であればすぐ突破できる雑なものと、そうでないものがある。
一番入手に楽なのは眼鏡だが、その辺にないか。無ければ作業場か店にある自分の物を使う――一番近くにあるのは作業場のルーペか。私はこの場での端末の起動を一旦諦めた。お客がいるのにその時間は無い。
とりあえず、淀谷さんの足音が聞こえてきたので、手帳を上着のポケットにしまって、冊子を段ボール箱に収める作業に戻った。
店じまいしたら、今日は店に泊まってあの手帳を見よう。
「ただいま。こぼれてはなかったけど、ズレてたし煮えそうだったから持ってきたよ。はい休憩」
「あーどうも、いただきます。淀谷さんは?」
「残ったから飲んできた。どう? 僕がすること何かある?」
貰ったタンブラーからコーヒーをすすりながら、私はかぶりを振ってみせた。本をしまったら終わりだ。どうせ月に一度は通電するし、そのときにまたマニュアル類が必要になる。
「本入れ終わったら昼ご飯にしたいですね」
「じゃ、なんか食べたいもの何のお口か決めといてね。決まらなかったら僕ラーメン食べたい」
「私も、ラーメン屋さんのお口です。店はお任せしますね」
タンブラーのキャップを閉め床に置き、私は急いでしまいものを続けた。
もうお昼だ、お腹がすいた……
その夜、私は店を閉めた後、店頭に残った。この店には祖父の居住スペースと、時折夜っぴて居座る酔っ払いを泊めるための部屋しかないが、その酔っ払い部屋を明日掃除するのも兼ねて泊まりにする。
祖父は相変わらず外出から戻らない。まあ年寄りに家に引きこもられても、年季が陰鬱で面倒なだけなので、どっかで事故死でもしなければ財布の続く限りよそで時間を潰しててもらいたいのが本音だ。
それに祖父と言っても何だか妙に若い。書類上の年齢が釣り合ってないと疑ったことは一度や二度ではないし、そこら辺に彼女でも作ってるんならそこで世話になるとよいだろう。
私は自分について覚えていない――知らない事が多すぎる。だが知ろうとすると爽やかに邪魔が入る。この邪魔が主に祖父なので、普段持つ様な意見とは別に、今日は外で仕事なり遊んでてて貰いたい。
倉庫で拾ってきた端末と、店頭作業用のルーペディスプレイをリンク作業。そこまでは三秒もあれば完了する。
このルーペも古いので秒かかるが、屋外用のミルスペック物ディスプレイなら勝手にリンクする上に画像がいいからそれが欲しい。しかし高価で手を出しかねている。
実は、倉庫の「自分の装備」と言われている物が、本当に自分の物かどうか私自身よく知らない。
この店を引き継いで最初の棚卸しの時、預かり品の中に記載がないのに気がついた。私か祖父の私物なのだ。
祖父に何となく問い合わせると、「あれ? お前の」とあっさりと流されて正直困惑したものだ。
あれらのうち厳重に梱包された大物のいくつかを覗いて見ようとしたが、ロックの生体認証が数段階に及んでおり、本来赤の他人ならケースに手をかけた時点でアクセス不能だったのが、見るのやめようかなとつぶやいた瞬間声紋とパスコードが両方開き(「みるのやめよう」が正解だった)、最後のDNA鍵もあっさり開いたのだ。
どっかの狂った足長おじさんの狂ったプレゼントでもない限り、自分の物ではあったと解釈するのが普通だろう。
そして倉庫で拾ってきたかわいい系手帳はそれらとセットになって置いてあったものだ。
どれだかのケースの小物入れに差し込んであった。
その柄が趣味かと聞かれたら、そもそも紙の手帳を使わないのでどうでもいいと答えるが、以前の私はそんなに電源というものを信用していなかったのかもしれないし、文具好きなら今でも紙の手帳を使っている人が割と居るらしいので、正確なところはわからない。
以前初めて発掘したとき中をちらっと見たのだが、挿してある数人の写真の他は、字が汚くて目が滑ったので、そっと閉じてそこら辺に置いておいたものが今になって出てきた。
手帳はさておき、端末の電源をどうやって入れるのか、そういえばこの穴掘りピアス(正式名称を知らない)を手に取ったことすらないので、そのタイプの端末も全くノーチェックだった。
「しょうがねえなったく……」
何かつぶやいたらよくわからないものの電源が何でも入るほど世の中都合よくはできていなかった。バッグに突っ込んである自分のタブレット端末を引っ張り出して電源を入れる。
まず、穴掘りピアスの名前から検索しないとならないとは、迂闊だった。
さて、それから二時間後、カウンターに置かれたイヤーロブピアス型端末は、起動され私に中身をご開帳した。このロック解除がこれまたおかしな話で、入力方法が全く判らなかった。
かといってこの端末がはめ込まれるサイズの、結構でかいイヤーロブを開けている訳ではないのでつけるわけにもいかず、握ったら解除されるほど雑なロックでもなかった。
しばし悩んだ挙げ句、本体と穴部分を外して抜いて布テープで本体側を耳に貼り付けたらロックが解除されたのだ。変なところに凝っている。
ルーペに映るのは、初めて見る、装飾っけのないUI。型が古いだけではなく、極限までそこにかかる処理を減らしているのが見てとれた。
身体状況認証エラー。バイタル表示なし。そりゃ自分につけてないものね。
表示は左腕欠損、左脚欠損、左目損傷の激赤表示で止まっている。装備らしき所にタケウチ……竹内精機……浮き砲台?
浮き砲台というのは早い話が遠隔操作の爆撃ドローンの、無理矢理載せれば人も運べるでかいやつだが、普通の人に買えるような代物ではない。
価格がすごく高くて、淀谷さんとその友達の探偵コンビがふざけてカタログを取り寄せたら、店のお客でもある竹内精機の営業の人が直接来て「君ら買うって? あれを?」と冗談でカタログ請求しないでくれと苦情が出た金額だった。
そのとき聞いた。祖父が相手にするお客にはこういうのを個人で買う人が本当に居るので、会社が本気にするのだが、実際には個人が道楽や身辺警護程度で手を出せる価格ではないとか。
これはただのピアス飾りではないのか。この、体に開けた穴に嵌める方は一体どういう構造をしているのか、誰かに見せて判るものだろうか。そんなお客も探せば居るだろうし――確か淀谷さんの相棒の人が全身機械化していて、その面倒を三十五番艦のラボが見ていたので、おそらくそこなら何かわかる――相変わらずお客してくれる竹内精機の人に聞けば少しは判りそうだが、さて見せていいものかどうか。悩む。
まさか連絡先に知っている名前はいるまい、と、通信欄を開けると、店、祖父、数人の知らない人のアドレスと、警察系警備会社に勤めていて派遣警備管理課課長の井筒さんというお客、この二十二番艦の中枢部にあるラボの主で私の主治医の久能医師のアドレスがあった。
もうそれだけでこの端末は、普通なら電源切って倉庫に戻す案件だ。祖父に見せたら一度で没収になるだろう。
それとも、久能医師の所に隔離尋問位は前提で持って行って、これは何だと問い詰めるか。
休前日ならそれも話の種にいい。
激赤表示のままの画面を眺め、私はなんだか気が滅入ってきた。こんな状態だったら、この端末を使っていた人は死んだと思う。確実に死んでる。使うあてもない物騒な遺品を私物で残されるとか、親でもないのに困るだけだ。いいや親でも困る。
何か面白いものがないかと起動してみたが、だめだ。前任者の死因を確認した感じの履歴だけが残っている。他の操作をする気が失せた。
ちっとも面白くない。私は端末の電源を切り、耳から剥がして、そっとそれらを手帳のポケットにしまい込んだ。
この小汚い字で書かれたかわいい手帳でも眺めるか。でも風呂に持ち込んだら絶対湿気るだろうな。紙はそういうものだと聞いている。
そんなどうでもいいことを考えながら手帳を開くとちょうど同じ月が開いた。ふとカウンターの柱にかけられたカレンダーを眺めると、たまに店に来る学校の友人の字で明日のマスに「宿題提出日☆」と書いてあった。
しまった。すっかり忘れていた。こんなよくわからない遺品よりまず古文の宿題だ。宿題と言うより全部暗誦さすから覚えてこい案件だ。
私はタブレットを手に取り、慌ててその友人にコールした。
宿題……あなた終わりましたか宿題……起きてますか……起きろェ……
次の午後。
スクーリング帰りに、店に寄らず倉庫に戻り、そのまま配達に出かけた。ところが私はうっかりしていて、昨晩宿題してない同士で大騒ぎで宿題を片付けた時に、タブレットを一緒くたに店のカウンターにしまいこんで登校し、そのまま店を経由せず戻ってきてしまったのだ。
行き先は井筒課長の警備会社の近所の喫茶店。井筒課長とその部下、加藤さんの私物のハンドガンがメンテナンスに出ており、受け渡しが今日の午後なのだ。今から行けば指定の時刻に十分間に合うが、店に戻っていたら少し間に合わない。
まあいいや、と私はそのままとっちゃんバイクに乗った。指定駐輪場に停めておけば、高波でもきっちりホールドしておいてくれるので問題は無い。
高波も昨日の今日で交通量が無く、路駐の車がずれたせいで所々事故現場になっている。
船の上に車を走らせるのをやめたらいいのに、と検診ついでに久能に言ったことがある。そううまくいかないのだ、とあっさりかわされた。配達に出るようになってからそれが骨身にしみる。
がら空きの指定駐輪場にバイクをしまい、私は指定時刻十分前に店に入った。時刻の指定をしてくるということは、井筒課長らは割と暇で、世間は平和なはずだったのだが――
お客が、来ない。
お客と、連絡取れない。
間が悪いとはこういうことを言うのだ。しょうがねえなと口から出てきた。どうするかしばし悩んだが、そういえばいいものがある。
タブレットは店に忘れてきたが、手帳は上着のポケットに放り込みっぱなしだ。そこに入ってた例のイヤーロブ端末。
あれに登録されてある井筒課長のアドレスは今と同じものだった。
ルーペは持っていないが、今度は普通に眼鏡がある。さあいらっしゃい連絡先ちゃん、どうして手で握っても起動しないのか判らないけど耳に当てたらいいんでしょと耳たぶに当てる。
起動した。
早速、「誰の何から発信されるか」という肝心なことを全く考えずにコールすると、背筋が凍る程怖い声のおじさんが出た。
『どちら様でしょうか?』
「あっ、あの、薬師銃砲の、すっ、すみません間違え……」
『えっ。待って。あの、薬師ルリコさんですか? 間違いじゃありませんよ、井筒です。今どちらに?』
「ご指定の場所に居ます。時間もし私が間違ってたらまずいと思って」
『時間? ……ああ、申し訳ない! すぐ参ります』
すうっといつもの井筒課長の物柔らかな声に戻った。時間を定時後と勘違いして記録していたという。
遅くなってもそれはまあ、今日は店の奥でのたくっている祖父をせかして店番をさせればいいだけなので特に何ということもないが、その、すごく怖かった。
ものの十分もしないうちに、慌てた様子の井筒課長が加藤さんを連れてやってきて、私を見つけて愛想笑いを浮かべて近づいてきた。
どっと疲れた表情をしているらしい私を見て、加藤さんが、その大きな手を私の眼前でひらひらさせた。
「ルリコ? おーい、大丈夫?」
「下の名前、呼び捨てにするのやめてください」
「へーいへい、おんもではしません」
人相が悪いせいで笑っても顔が怖い、そこそこ若そうなおじさんを連れてくるということは、派遣警備課は結構暇だったのだろう。
井筒課長は私の正面に、加藤さんは私達のいる二人掛けのテーブルの脇に椅子を引っぱってきて座る。
ガンケースの入ったバッグを渡そうとすると、井筒課長はそれを遮り、私に尋ねた。
「どの端末から連絡をよこしたか、お持ちでしたら見せてください。捜査中ではないので、見たらお返しします」
私は口がぽかんと開いたのを意識した。何かまずいことがあったのだ。
隠し立てする理由は無いが、そもそもあのイヤーロブ端末がまずいものであるとは考えておらず驚いた。
テーブルの上のふたつの石を指さして、眼鏡を外し、私はそれを井筒に渡した。
あの前任者の死因みたいなログを見たければ、存分に見ていってもらえればいい。
何これ、と加藤さんの小さく呻く声がした。
これが例のアレです、という井筒課長。
加藤さんは、情報としては共有していたが関連現物は初めて見るという。UIの勝手が判るらしく随分いじって覗き込んでいたが、やがてふたりは息を吐いて顔を上げた。
「薬師さん、これをどこで?」
「うちの倉庫の奥です、あの、ごついもんがいくつか入ってるところ」
「わかります。……ですよね」
何かまずいことがありますかと聞くと、井筒課長は渋面を作って押し黙った。
加藤さんが代わりに、そして慎重な説明をするところによると、物自体は何もまずくないのだが、端末に登録してある連絡先の一部がまずいのだそうだ。具体的には、久能医師と井筒課長以外の全ての人物に連絡をして欲しくない。できれば端末の電源が入ったことをすら誰にも知られたくないという。
「まあ、それは、ここから人に連絡することってあんまりないと思いますし」
「今日のはどうしたんですか」
「タブレットを店に忘れました」
加藤さんに、危険度MAXだと返され、私は軽く舌先を出して見せた。
井筒課長から見終えた眼鏡と端末を受け取り、眼鏡をかけ直し端末を上着のポケットにしまう。
「何かまずいことがあるんですか?」
見たことのない複雑な表情でしばし考え込んだ井筒課長は、やがて、ありますと軽く頷き、こう続けた。
「この端末を使ってお話したくなったら、私か久能医師に。一生のお願いだと思っていただいて差し支えありません」
また大げさな、とは思ったが、井筒課長は部下と違ってそういう表現は滅多にしない人物だ。
はいかイエスで返事をするより他なかった。
話はそこで終わり、本題を片付け、私は家に帰った。バイクに乗ろうとして、端末と眼鏡の接断を忘れているのに気づき、ついでに電源も切ろうとした瞬間、どこかから着信があった気がしたが、周囲が明るすぎて発信者が見えない上に、確認するまもなく電源は切れてしまった。
あれから四日ほど経って、イヤーロブ端末の電源は切ったままでいる。というのも、手持ちのタブレット用充電台に置いておいても充電されないからだ。これは倉庫に戻しておいたとしてもどうにも解決できないのではないか、あるいは倉庫の電源のどれかに何か遠隔充電プラグみたいなものがつけられているのか。
倉庫に戻ればすぐ判るようなものだが何となく戻れずにもいた。何がどうというわけでもなく、何となく億劫なのだ。
どこに出かけるでもなく普通に店番をして終わったら軽い食事をして友人と話して寝る生活。上の空というか心ここにあらずというか、そんな感じでいるから商品の箱を足に落とした。
「ああいって、痛ぇ!」
かがみこんで箱からいくつか飛び出した弾丸を拾っていると、外に人の気配がして、誰かが店に入ってきた。そういえば今日は淀谷さんが新しい銃を受け取りに来るが、違う。聞いたことの無い足音がする。
常連の誰かではなさそうだ。するとご新規さん?
やったーあたらしいおきゃくだ、と弾丸をポケットに突っ込んで起き上がり、にこやかに挨拶すると、確かに知らない男の人が私の顔を見てたじろいだ。口が「若っ……」という感じで動く。
祖父が相手にしているお客だろうか。たまに私の顔を見て驚く人が居るにはいるので、特に何も気にすることはない。
「今日はどうされました?」
「ちょっと銃把がガタつくんで」
「ふーん……あなたこれ何かおもっくそ殴りましたね? しかも死ぬほど殴ってそのまんまだ」
「わかる? 話が早くて助かるよ」
そりゃあ付着物そのまんま持ってくればね……と喉元まで出かかるのを飲み込み、私は男の顔をしっかり確認しようと見上げた。だが顔の感じがわからない。顔がないのではなくて、視野が受け付けない。目が滑るのだ。
男は矢継ぎ早に喋りだした。早口すぎるだけでなく言語が違うので何言ってるか聞き取りにくいが「何年も何していた」「全身整形か」「(誰か人の名前)はどうした」と聞いているのが聞き取れる。こちらも緊張で吐きそうになってきた。
脇を冷たい汗が流れて、男の両手の位置を確認するのがやっとになる。
怖いのではない。私はこの渡されたハンドガンで、お客に喋る隙も与えずぶん殴りそうになったのだ。
こらえるので必死なのだ。
「あんたね、久能と今連絡とってる? 奴に用があるんだが」
次の瞬間、自分でも信じがたい声量の怒号が私の口をついて出た。
「お前、誰だ!」
男が動いた。こちらに向けて抜いた別の銃を構えさす寸前に、その腕をはたいて狙いをずらすと、彼はそのまま発砲し、壁に穴があいた。私は返す刀でとっさに拾ったタブレットの角でその横っ面をはたく。変な手応えがして、端末が接合部からばらばらになった。
「うっそ」
銃声に応じてカウンターの斜め上正面にある釣り戸棚の戸が、内側からすぱんと観音開きに開き、そこから機械が顔を出す。乾いた砲音と重たい激突音がして、男はカウンター突っ伏して動かなくなった。
店内は静かになった。私はそっとカウンターから離れて、店のドアに鍵をかけ、ロールスクリーンを下ろして、そういえばタブレットをぶっ壊したのを思い出し、やむを得ずイヤーロブに手を伸ばした。
電源を入れ、相手は井筒……と思ってコールしたら出ない。
「しょうがねえな、ったく……」
この硬い男が探しているのは久能医師だ。井筒課長は久能医師ならかけていいと言った。こいつが目を醒ます前に、誰か警備会社の人を、どこの会社でもいいから呼んで貰おう。
コール音数回の後、案の定警戒心丸出しの久能の声がした。私はとにかく自分が店番中の薬師ルリコである事を訴え、誰か呼んでくれと必死で訴えた。それをひとしきり聞いた久能医師は、こういった。
「わかった。人呼ぶけどさ。ルリコさん落ち着いてや。どうして店のアドレスからかけないかった? 今度の定期健診の時、何やったか説明してもらうわ」
警備会社の人が来て、状況の説明をしていると、小一時間ほどして井筒課長と加藤さんがセットでやってきた。
男(相当な重量物を食らわせたはずだが、気絶しただけ)は連行……というか救急車で運搬されていったので、店内はだいぶ片付いたところだった。
先に来た社員から何事か加藤さんが引き継いでいるのを横目に、井筒課長はあまり面白くなさそうな表情で自分のタブレットを眺めていた。
「薬師さん、いい小遣いになりますよ。くびかり族だ。三日前に乗船してきて、生存のみで賞金がかかってた」
「ハァ。なんですかそのゲームのザコ敵みたいなものは」
拍子抜けた声を上げざるを得ない。井筒課長が説明するところによると、ザコ敵は「首借り族」なのだという。
本拠地を陸上にもつ、誘拐や暗殺を中心に生業にしている集団だ。罪状が積み上がると、首から上をそのままに身体を代替生体部品に総取っ替えして新たな人生を歩み始めるという。
細々と変えていればいいものを、えらくお高い人生だが、何らかの信教の都合だからしょうがない。
体換え族じゃないのか、という薬師に、井筒課長は「飛頭蛮のほうがよっぽど合ってると思うんですがね、名前つけた年寄りの駄洒落のセンスが最悪だったんで」と苦笑してみせた。
「とにかくですね、その端末の電源をできれば入れるなと言いましたよね」
「す、すみません、とっさにこれしか無かったんで、つい……」
私はイヤーロブの電源を切り、井筒に渡そうとしたが、受け取られることはなかった。
「できれば拝借したいんですが、実は今朝会社の上から絶対持ってくるなと、口頭で念押しされたんで、受け取れません」
「ハァ。じゃ電源切ってしまっておきます。やだなーもう新しいタブレット買いに行かなくちゃ」
冷凍庫用の頑丈なチャック袋に端末を放り込み、私はそれをカウンターの隅の目立たないところに置いた。
これから何個目か先の端末はこの形にするかな、とふと思ったが、ピアスの穴をあけて拡張するのが面倒だったので、そのうちと心の中でそれを棚上げした。
今日のお客はこの騒ぎで打ち止めかな。元々個人向けにぼろ儲けするような商売でもなし、そこら辺はしょうがない。
なんかいい販促ないだろうか。気を取り直して、私は改めて店のロールスクリーンを開けた。
井筒課長と加藤さんは、用が済んで少しさぼりたいときに、薬師銃砲の店先を「茶の出てくる休憩所」みたいな扱いにして居座る。
お客がいるように見えるしまずいこともないのでいつもなら特に気にしないのだが、今日は少し気になった。
ぎりぎりまで全く思い出さなかったが、今日は閉店間際に淀谷さんが来ることになっていたのだ。この前結局新調した狙撃銃を受け取りにくるという話だった。
三十五番艦行きの連絡艇の出航まで時間が無いので、試射は彼らの事務所近くの射撃場を紹介しておいた。
井筒課長・加藤さん・淀谷さんの三人の間に何か悪い因縁があるわけではないけれど、これからする事を考えて私は軽く億劫だ。
と、約束の時間ぴったりに淀谷さんが現れた。井筒課長と加藤さんを見て「あれ珍しい。左遷ですか」などと言いながら会釈して入ってくる。
彼は、お友達が三十五番艦のラボでフルメンテナンスにかけられており、明後日まで暇だという話を、警戒心のかけらもないでかい声でしながらカウンターの前に立った。
品物の受け渡し。書類の記入と送信。ここまでは普通だ。で、次の行為がその億劫だった。
カウンターのおやつかごに残っていたおやつをふたつかわいい紙袋に入れ、中に一緒にイヤーロブ入りチャック袋を入れる。マスキングテープに「充電して、中見て何が何だか教えて下さい」と書いて、封のシール風に貼り、淀谷さんに渡した。
一連の行為を眺めながら、淀谷もちらりと居座り人足の方を流し見る。了解、とその口だけ動いた。
多分後で、結果報告書とさほど高くない請求書が来ることと思われる。
やがて閉店時間が来て、井筒課長も加藤さんも何も気づかない顔で普通に帰って行った。気づかれた所で証拠物件として持って行ったりしないことになっているのだから、せいぜい加藤さんが口をとがらせる位だとは思う。
後のことは後のことだ。既に何かよくわからない襲撃者が出ているのに、私の知らないところで何かが起こっているが、知る由もないからしょうがないのだ。
倉庫に戻ろうとすると、いつの間に帰ってきていたのか祖父が奥から顔を出し、晩飯どうだと声をかけてきた。
晩飯に何しようとかいうつもりを明後日にぶん投げ、先日掃除を終えた酔っ払い部屋に泊まることにして、お相伴にあずかった。する話は近況報告、いつも同じだ。今日のあれも何だかよくわからなかったので、強盗注意位の話になった。
その後、部屋に落ち着き、私は例のかわいい手帳を初めてまともに開けた。
挟んである写真、書いてあること。小汚い字ちまちました字で、日本語以外でも書いてあってなかなか読み進められないのだが、掃除中に部屋に放りっぱなしの昔のこども用端末を見つけたのもあり、カメラ翻訳で読み解くと大体読めた。
手帳の持ち主は二十年前の私――薬師ルリコ。年齢は二十八歳。娘がひとり。
娘の誕生日は八月三日。薬師まりか、当時四歳。結構かわいい。
手帳には正月からクリスマス当日までぼつぼつと予定が書いてあり、保育園の予定と仕事の予定が混在している。夏休みや冬休みは目一杯とる人だったようだ。
架空の親戚を殺してでも休む、腹を壊してでも休む、精神が汚染されているつもりで休む、と書かれたマンスリーのマスがいくつかある。保育園の行事だろうか。
十二月は子供のクリスマスパーティーにママ友のお手伝い(運転手)に出かけることが数度あったらしい。
ウィークリーの枠に時々ひと言日記がつけてある。粗方娘の状態だ。今日もかわいい、かぜひいた、歌を上手に歌った、絵がうまい、実銃をいじりたがるから水鉄砲をやったら店を水浸しにした、等々。時々この店の店番もやっていたらしい。
倉庫のあのワンマンアーミーじみた遺品の数々からこれは想像できない。
ママ友、町内会、飲み友達。よくある人付き合いはそこそこあったようだ。
その合間に、イヤーロブの連絡帳に登録されていた人に会っている。井筒課長。久能医師。
久能医師と会う回数が猛烈に多いのは、この時期確か彼が艦のラボに引きこもる直前で、近所に住んでいたかららしい。
おそらく付き合いが祖父の次くらいに長かったのだろう、結構突っ込んだ話をしたといくつか書いてある。
というのは、私自身そういう話を久能医師とたまにする事もあるし、本人も「ものすごく付き合いが長い」と私に隠すことなく言うからだ。
パパちゃん。「PDM、パパちゃんのセット、らんち」とわざわざ書いてあり、端末に登録されていたのはPDM、UGOで姓が一緒だったのでおそらくこの辺なのだろう。
KM。「海浜公園マラソン、練習におつきあい。これ以上はつらい!!!次は飯食わせろ!!!」
キロメートル? 一応人名なのだろう。端末が戻ってきたらわかる。
井筒課長。随分付き合いが長いようだ。この時警備会社勤務だったかどうかは定かでない。だが今五十近いはずなので一応年齢的にそんなもんだと思う。
私が事故に遭ったと言われる日は確か年末直前。聞いた話じゃ十年前という話であった。手帳の日付は二十年前だ。
もやっとするが、十年でも二十年でも、忘れてるなら一緒だ。
その間何があったのか、考えてもしょうがない気がした。
今、私は書類上で十六歳。風邪を引いたからってそこら辺のクリニックにかからせてもらえず、歯医者の果てまで全部久能医師のラボに行かなければならない。
身体が代替生体部品でできていてもおかしくないのは、生活に不自由しない程度の知識の積み重ねができてきた今なんとなく察している。
最後のページの緊急連絡先にこの店と祖父のアドレスが指定してある。まあ、わかる。
挟んである写真は、全部どこかで撮った画像データを余程大事に思ったのだろう、現像してある。かなり親密そうな男と写っているものがあって、おそらくこれがパパちゃんだ。
かなり若い井筒課長と、今とあまり変わらない久能医師、えらく若いが多分祖父の三人組。
祖父らしき男は、だとしたらえらく若作りなのであちこち代替生体部品になっているのかもしれない。これをひなびた感じにしたら丁度今だな、という感じの飄々としたやる気なさそげな線の細いおっさんが写っている。
昔のお客に大佐呼ばわりされてる割には気合に欠ける造作だと思っていたが、地顔だったとは。
何人かの男女の写真が数枚。娘の写真。かわいい。
あまり構図に拘ってないところをみると、呼び止めて何となく撮るのが好きだったのだろう。
皆、服のどこかに揃いのパッチがついている。チームか何かかなと思った。
欠伸が出てきた。何か世界の(少なくともこの船団の)破滅につながりそうな重要な事は何も書いてない。落とし物の手帳と何も違わなくて、微笑ましいがまあそれだけだ。私は長いこと寝ていて記憶がなかった、という事実にあまり変わりは無いし、忘れているから何か失ってても気づかないのだろう。
手帳を閉じたとき、ふと、カバーと手帳本体の間に、古ぼけた四つ折りのノート紙らしきものが見えた。
引っ張り出してみるとこれまた何語で書いてあるかよくわからない走り書きがしてある。えい、ほんやくあぷり。
「ルリコ、これを見つけたらあなたは目を醒ましたんだと思う。私と兄はあなたに詫びなければならない。うちの実家の揉め事に細心の注意をして巻き込まれないようには努力したが、及ばなかった。私とあなたの娘を護ってくれて本当にありがとう。彼女は大佐やカンムリに預けてもよかったが、男所帯では女の子の養育は難しいと思い、井筒夫妻に預けることにした。あなたの事はカンムリと三十五番艦のラボが本当に上手くやってくれた。身体は生存に適した年齢と性能で新しくなるはずだ。ちなみに久能が二十二番艦ラボの後継になったのは随分前から決まっていた話なので、あなたは関係ないから、いつも通り気に病まなくていい。それで、もし、目を醒ましてこの紙を見つけて、我々を、特に私を赦してくれたなら、いつでもいい。せめて生きているうちに一度、コールを一回鳴らしてほしいんだ。あなたを危険に晒したくないから、遠目に見にいく。それでいい。愛してる」
――ウーゴ・ザヴァッティーニ。二十年前の正月。
多分その、……パパちゃん、一体何者だ。私はどうにも自分の顔が釈然としない感じになっているのが判った。
三十五番艦のラボに直接出入りできる特殊な事情もちの探偵氏に、端末を押しつけてしまったので、報告書に何が書かれるにせよ、ラボの主は仰天するに違いない。どうしよう――どうしようもない。
えい、放っとこう。私は枕元に手帳を閉じて置くと、毛布をかぶって、さっさと寝ることにした。
あれから少し経って、期末考査があり、私は二十年前の過去の亡霊より今の試験に忙殺された。
完膚無きまでに粉砕された科目があり、追試こそ食らわなかったが正直がっかりだ。古文というのだがな。
そんなわけで、試験終了後の休日、店番を暇だという祖父に押しつけ、いつもの友人と出かけることにした。私から出かけたがるのが珍しいと言われたが、本当にとにかく誰かと出かけたかったのだ。
手帳と端末の一件以来、突如ぼんやりして配達用バイクで転けたりしていたので、友人がタンデムしたがった私物のバイクを出すのはやめた。事故ってしまう危険がある。
あれ以来船は進み、気候や高波はだいぶ落ち着いて、船団は組み替えられ島になり、トラムも普通に走っているからトラムで行こうというと、友人は軽く悔しがったが、事故に遭っても面白くないのはお互い様だ。
薬師銃砲の店先でどこに行こうか相談中、友人は何となく私に言った。
「配達のバイクでこけたって?」
「うん、短期間に二回こけて、最後路肩に足ひっかけてなんかひどい捻挫したしさ。まあ試験期間の二週間前だったから、当日まで出席の必要もないし二週間位家でケツに根っこ生やしてたから治ったけど、それが地味に在宅試験の届出すの忘れてさ」
「なんと哀れな……ルリコさ、そういえば古文の試験中寝てた?」
「いや? 起きて……いや……え、寝てた?」
「ちらっと横目で見たら、あんた目と口開いてしばらく静止してたから、気味悪い寝方するなと思って」
「や、何それ。やだねそれ……ちょっとそれで気がついたら時間無くなってたのかい、やだね……」
自分でも意識していない気味の悪い有様を指摘され、私は首を傾げた。何かの前兆だったらそれはそれで久能医師に相談しておかなければならないので、今日でも何かの合間にしておこう。
友人は、私のその様子にわざとらしく数度頷いて、こう言った。
「さては、ふられたな?」
「えっ私がかい。ないない」
「えーうっそお、誰かいないの? お店に人来んじゃん」
「なんだよそのお節介おばさんみたいな口の利き方は。お客で彼氏できねえよ」
「えーそう? ふられた事にしてやろっと。じゃケーキ食べ放な」
私の抗議を聞き流し、友人はさっさと行く先を決めてしまった。まあいい、丁度甘い物の口だった。
「店あたし選ぶから! あ、割り勘ね」
「ふられてすらねえもん、おごれとか言わないよ……」
では決まれば出発だ。私達は席を立ち、店番の祖父に行ってきますをして外に出た。
ケーキ食べ放題の後、買い物をして、友人とは普通に最寄り駅で別れた。
ふと、雑踏の中で妙にぴったりくっついて歩いてくる男がいる。引き離そうとしても脚が速くて離れない。走り出そうとすると首がくっと引かれる感じ。これ走ったら首が締まるやつだと閃いた。
いずれ歩きながら首が落ちるし、止まったら首を叩き落とされる、と嫌な想像が去来して足が止められない。
人気の無い方に誘導されていくので、どこでこれをどうしようかと考えながら歩いていると、前方後方からふたりの人が近づいてすれ違い・追い越しざまに消音器のガス音がした。
音に驚いて私はその場にうずくまり、視線を感じてふと顔を上げると随分高価そうな車が一台走り去るところで、ふたりの人は消えていた。背後に何か倒れているようだが、逃げるしか能が無かった。
私は慌てて店に戻り手帳を回収すると、久しぶりに倉庫に帰った。倉庫は静かなもので、変わったことは一切無かった。
浮き砲台のでかいケースを開け、小物入れに手帳を挿してふたたび閉じる。しばらく封印して、知らぬ顔で居た方がいいと思ったからだ。危険というのはこういうことか。
あれ、手帳しまっても一緒なのでは……?
私は手帳を出したり、入れたりをしばらく続けて、結局しまっておくことにした。
なんだか、自分で自分の身を護れるようにしないとならない気がして落ち着かない。
こういうことは誰に相談するべきなのか。
おそらく、祖父に相談するのが一番いいのだろう。あの手帳を込みで。だがそうするとあのノートの紙をも渡さなければならないのか。なんだかどういうわけか大変複雑な気分だ。
私は自室でそんなことをずっと考えていて、眠れないとも思ったが、そう思った後は割とさっさと眠ってしまった。
その夜、私は夢を見た。作業着姿の背の高い女性と、倉庫の作業場でコーヒーを飲みながら談笑する夢だ。
どうもどこかでいつも見ている顔だが、誰だか思い出せない。
どういうわけか私の愛用のマグカップをその人が使っている。
その人曰く、二十八歳まであと十二年はある。手探りで生きる手段を探して大怪我する必要の無い環境にいるのだから、祖父に話しづらいことは、久能医師に話したらいい。艦のラボとはそういう連中だから、楽をしろと。
あと身長は百七十八センチに伸ばして貰え、せっかく遠隔充電からメンテナンスまで一生懸命して保管してある装備に、身長が合わないと使えないものがあるからもったいない。
それから、あの装備一式を使う機会が出たら、もう相当な骨董の部類になるから、使い勝手が悪かったら何度か難しくない賞金で稼いで、下取りでもぶっ壊してもいいから買い換えなさい。まだ、竹内精機に装備一式見せたら判るから。
それだけの額は稼ぎ出せる装備だから、井筒君(君呼ばわりだった)あたりに申し出て、使うための訓練を受けなさい。
私は、徒手空拳で相手してられるほど優しい奴らが相手ではなかったから、万が一ってあるから。
「……後、おじいちゃんもうトシだから。頼れる度が薄い上に、これ以上ドン引きさせたら寿命が縮むから。やめたげて」
そう言われたところで、目覚まし時計のすごい音で目が覚めた。
タブレットの表面に「定期健診」「帰りにバイク屋」「どこかで数学の小テスト、日が変わる一秒前まで」という表示が出ている。
そういえば今日は、定期健診だったっけ。数学の小テストは結果待ちの暇潰しに持って行こう。
久能医師に根掘り葉掘り聞くと宣言されているから、この際人生相談も一緒にしてもいいかもしれない。
私は、急に起こされてあまり目の覚めていない表情で、枕元の鏡を手に取りそれを覗き込んだ。
夢の女性が、そこにいた。
【了】