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「山田くん、くだんの会議資料は出来上がっているのかね」
「あ、はい! ただいま!」

 課長に声をかけられたわたしは、慌てて身体を捻ってしまったせいで、机の上のコーヒーカップを倒してしまった。「あわわわ……」と黒く染まっていく会議資料を前にあたふたしていると、今度は卓上加湿器を倒してしまう。
 ため息をついて、額に手をやる課長。
 
「すみません、すみません!」と謝るわたし。そうしているあいだにも机の端からぽたぽたと水が垂れていく。くすくすと同僚が笑っているのが聞こえてくる。
「大事な会議なんだ、間に合わせてくれよ」

 ため息一つ。
 なにをやってもダメなわたしだ。呆れられるのにはもう慣れてしまった。でもいつまでも落ち込んでばかりはいられない。さっさと手を付けないと、今日も終電間際まで残業をする羽目になってしまう。

「……よし」
 わたしは顔を上げた。
 溢れたコーヒーのせいでノートパソコンが煙を吐いていた。

 『くだんといっしょ!』   山田えみる

 件(くだん)
 《「くだり(件)」の音変化。ふつう「くだんの」の形で用いる》
 1 前に述べたこと。例の。くだり。「件の用件で話したい」
 2 いつものこと。例のもの。

 アパートに帰れたのは、日付が変わる直前だった。

 静まり返った住宅街。月の光はほとんど雲に遮られていて薄暗く、頼みの綱の街灯はぺかぺかといまにも切れそうな感じで瞬いている。わたしはスマホを懐中電灯代わりにかざしながら、おっかなびっくり夜道を歩く。どこか遠くでほーほーっと不気味な鳴き声が聞こえる。わたしは急いで歩を進めた。

 アパートの二階、わたしの部屋を見上げた。その部屋には電気が点いている。ごそごそ動いている小さな影も見える。もしこの世界がひとつの短編小説でこんな記述があったとしたら、読者はどのような推理をするだろうか。わたしは想像してみる。

 強盗? いや、ちがう。わたしの家なんかに強盗に入っても、なにも盗むものがないだろう。

 では、同棲している彼氏だろうか。哀しいけれど、それもちがう。わたしに彼氏なんてものがいたのは、十何年も前の出来事で、それは彼氏というよりももっとちがう言葉で定義される関係性だった。

 じゃあ、ペットかなにかだろうか。惜しい。めっちゃ惜しい。でも、うちのアパートはペット禁止だ。それに、ペットなどというとあの子は『もー!』っと言って怒る。

 わたしはぐっちゃぐちゃに詰め込まれている郵便ポストを無視して、錆びた階段を上がっていく。かんかんかん。あと少し。わたしは鍵を取り出して、頬を緩ませる。

「ただいまー!」

 パンプスを脱ぎ、廊下にカバンを放り投げ、わたしは小さなシルエットに抱きついて頬ずりをした。ミルクのような薫りが鼻腔をくすぐる。

 戸惑ったような少女の声。おっと、勘違いしないでほしい。強盗でも彼氏でもペットでもないその答えは、拉致監禁してきた幼女というわけではない。足袋に巫女服、ぱっつんの黒髪をかきわけて、小さな牛の角が覗いている。

「おかえりなのじゃ、やまだ」
「ただいまっ、くだん」

 その少女をぎゅっと抱きしめて、つむじの匂いを嗅ぐ。
 わたしは、小さくて愛らしい妖怪を飼っている。

 ※

 件(くだん)
 3 十九世紀前半ごろから日本各地で知られる妖怪。「件」(=人+牛)の文字通り、半人半牛の姿をした怪物として知られている。作物の豊凶や流行病、旱魃、戦争など重大なことに関して様々な予言をし、それは間違いなく起こる、とされている。

 ※
 
 わたしはなにをやってもダメだった。

 小さな頃からずっとそんな感じで、人一倍、いや、人二倍、人三倍努力をすることで、ようやく人並みの勉強だったり仕事をこなしてきた。わたしにとってはそれが当たり前だったし、いつもいつもみんなに迷惑をかけてしまって申し訳ない気持ちでいっぱいだった。仕事でもたくさんミスをしたけれど、どうにかクビならずに続けられていた。

 そんな感じで、どうにか自分に折り合いをつけながら、細々と、日の当たらないところでひっそりと、どうにかこうにか生きてきたわたしではあったのだけど、さすがにその日は無理だった。忘れもしない三日前のことだ。

 外は真っ暗。空腹と眠気を感じながら、パソコンを叩いていた。
「山田くん、くだんの資料は――」
 課長に聞かれることはわかっていた。が、先輩に頼まれた仕事がまだ終わっておらず、謝る準備はできていた。わたしはすぐに席を立って、頭を下げた。

「なるほど。あいつの仕事を手伝って、か」
「そうなんです。大至急だからということで頼まれてしまったので。片付き次第、資料の方は取り掛かります」

 課長は怪訝な顔をしている。怠けるための言い訳だとでも思ったのだろうか。しかし、先輩の抱えている炎上案件については、上司も把握しているはずだ。手伝いが必要なことも、緊急で対応しなければならないことも。

 が、彼の口から飛び出した言葉は、意外なものだった。
「あいつなら定時で帰っているようだ」
「え、でも、そんな――!」

 わたしの机には、先輩から頼まれた膨大なファイルが積み上がっている。わたしは先輩の机のほうを見やるが、ものけの空だった。目の前の仕事に追われていて、全然気が付かなかったのだ。

「……どういうこと」

 どうやって会社をあとにしたのかは憶えていない。気がついたら、アパートの前をふらふらと歩いていた。なんだかとても酷いことを言われたような気がする。わたしの頭のなかは、数え切れないほどの疑問符で埋め尽くされていた。

 どういうことなの。わたしを騙して。それとも普通の人なら、もうすでに片付いているというの。それなら帰るときに声をかけてもらっても。やっぱり、馬鹿にされてる? からかわれてる? 笑われてる?

「でも、それはわたしがダメだから……」

 これからのことを思い浮かべると、気が重かった。家に帰れば、シャワーを浴びて、ほんの数時間寝たら、始発で行かなくちゃいけない。会議の資料が全然まとまっていない。先輩とも顔を合わせるだろう。どんな顔をすればいいのだろう。どんな顔をしているのだろう。嗤っているだろうか。呆れているだろうか。

「そうか、死ねばいいんだ……」

 そのときわたしの頭の上には電球が閃いていたことだろう。そうだ。そうすれば、出社する必要も、自分の無能さを呪う必要もない。ほんの一瞬の痛みに耐えるだけで、もう辛いこともなにもない。なによりわたしがいなくなることで、みんなの仕事が円滑に進むことだろう。

 おあつらえ向きに、車のヘッドライトがわたしを後ろから照らした。いま思えば、わたしのほうがふらふらと車道に出ていてしまっていたのだと思う。急ブレーキの音が響くが、わたしにはもう避ける元気がどこにもなかった。ああ、これでようやく。そう思っていた。

 そんなとき、見知らぬ少女の声が聞こえた。
『お主はまだ死ねんよ』

 その瞬間、背筋をぞわっと駆け上ってくるものがあった。それはたぶん、死への恐怖と呼ばれるもの。祖父や祖母、母の顔が思い浮かび、ああ、これは走馬灯なのだと理解した瞬間、身体が全力で駆け出していた。ダメだ、死ぬのはダメだ。わたしは、わたしのすべてでそう叫んでいた。

「はぁ、はぁ……」

 歩道に転がり込んだわたしは、ひどい有様だった。アスファルトの地面に滑り込んだときの衝撃で、手は血だらけだし、今日おろしたばかりのストッキングは見事に破れてしまっている。かばんはわたしの身代わりとばかりに車道で無残な姿になっていた。

 ようやく息が落ち着いてきて、身体の各所の痛みに気がついていく。状況も理解していく。息ができている。身体が、痛い。痛みを感じることができる。髪もぼさぼさでみっともない格好だけど、まだ、わたしは。

「生きてる……」
「当然じゃ、わしが予言したんじゃからな。くだんの予言は外れないのじゃ」
 それがその妖怪との出会いだった。

 ※

「もー! いつまで嗅いでおるのじゃ」
「え~、もうちょっと!」

 抱きしめられながらもだもだ蠢くくだんに、わたしは唇を尖らせる。くだんのつむじはミルクのような薫りがして、一日の疲れなんてすぐに吹っ飛んでしまう。幸せすぎて、くだんの頭によだれを垂らしていたこともあるくらいだ。常習性もあるらしく、仕事中は嗅げなくていらいらしてしまう。

「今日もありがとうね。くだんの予言のおかげで、危機を回避することができました。ほんとうにわたしはくだんがいないと生きていけません」
 ぎゅっと抱きしめていたのを離して、五体投地でひれ伏した。

「くだんの予言は外れないのじゃ!」
 おそらくすごいドヤ顔をしているだろうなと思ったので顔を上げてみると、案の定すごいドヤ顔をしていた。彼女は毎朝、いくつかの予言をする。それは妖怪『件』としての能力で、あの死にかけた夜からずっとその予言は百発百中。本人のいうとおり、一度も外れたことがなかった。

 ちなみに今日、牛乳をごくごく飲みながらくだんがした予言は――。
『やまだは幸運じゃのう。大惨事に見舞われるのじゃが、落ち着いて身の回りのことを見回してみると、そんな大したことでもなかったことに気がつくのじゃ』
 というものだった。

 話は、今日のお昼過ぎまで遡る。
「山田くん、くだんの会議資料は出来上がっているのかね」
「あ、はい! ただいま!」
 というやりとりから始まった一連のダメピタゴラスイッチ。わたしはコーヒーをこぼし、加湿器の水をこぼし、パソコンの中のデータを壊してしまった。急ぎで仕上げなければならない会議の資料がおじゃんになってしまった。

「あわわわわわ……」

 パニックになってしまったわたしは、なにも手がつかずにフリーズしていた。どんなに一生懸命頑張っても、わたしはダメ人間だから、いつまで経っても人並みのことすらできやしない。自己嫌悪の波の中で、ただただどうしようどうしようとあたふたしていた。

 くだんと出逢う前のわたしなら、トイレの個室で小一時間落ち込んで、泣き顔で残業をしていたことだろう。しかし、このときわたしは、今朝牛乳を飲みながらくだんが下した予言を思い出していた。

『やまだは幸運じゃのう。大惨事に見舞われるのじゃが、落ち着いて身の回りのことを見回してみると、そんな大したことでもなかったことに気がつくのじゃ』

 身の回り。目の前には取り返しのつかなくなったノートパソコンに、1と0の海に消えた会議資料のデータ。こればっかりはどう考えても取り戻せないものだ。くだんの予言の意味するところはわからない。わからないが、

「くだんの予言は外れない」

 わたしは自分に言い聞かすように、その魔法の言葉を唱えた。くだんが幸運だと、身の回りを見回すべきだと、そんな大したことでもなかったと言っているのであれば、それに気がついていないわたしのほうに過失がある。

「あっ!」

 わたしは自分の鞄の中をまさぐった。今日の会議の資料で扱う内容はとても重く、日付が変わるまで残業をしても作業が終わらなかったため、家に持ち帰って自分のパソコンで作業をしていたのだ。だから、USBメモリにある程度のデータは残っている……!

 とはいえ、わたしのノートパソコンは黒煙をあげて壊れているので、同じ課の隣のグループにいる同期くんのデスクまで走っていった。他にわたしにパソコンを貸してくれるひとなんていないだろうから。

「ごめん同期くん、パソコン貸して」
「は?」

 怪訝な顔をする同期くん。彼はわたしと同期とはいえ、ばりばり仕事をこなしてとっても忙しい身だ。わたしにパソコンを貸している余裕なんてないだろう。でも、わたしにはこの手しか残されていないのだ。くだんの予言は外れない。だから、この手段で間違いはない。ふだんなら考えもしない行動だったが、いまのわたしにはその確信があったのだ。

「かくかくしかじかで!」
「え、かくかくが!?」
「しかじかなんです!」

 ため息をつきながら、同期くんはパソコンを貸してくれた。すぐにUSBメモリを挿して作業開始。どうにかこうにか、ほんとうのデッドラインには資料を間に合わせることができたのだった。

 ※

 くだんの予言。
 出会った頃は半信半疑だったものの、こんなことが続けば信じないわけにはいかなかった。いまでは朝食の席で告げられるくだんの予言が、一日で一番の楽しみになっている。毎朝一喜一憂していた占いサイトも見ることがなくなった。

 もとがダメ人間だからポカをしまくって怒られることもたくさんあるけれど、わたしはくだんの予言のおかげでかなり救われている。

「でも、くだん」
「なんじゃ?」
「そもそもパソコンが壊れるところは止められなかったんでしょうか」

 会議資料は間に合った。でも、パソコンはぶっ壊してしまった。会社の備品であるからしてコテンパンに怒られて、始末書やらなんやらで夜遅くまで仕事をする羽目になったのだ。
 このあたりも予言でケアしてほしいというのがわたしの贅沢な本音だった。

「だから、『机上にコーヒーを置くのではないぞよ』だとか『机の上はじゅうぶん余裕を持ったスペースを確保すべし』だとか、そういうのはできないんですかね」
「ああ、やまだはわしの予言を勘違いしておるな」
「かんちがい?」

 わたしが首を傾げると、くだんは頭から生えている小さな牛の角をいじりはじめた。

「くだんの予言は外れない。じゃが、くだんの予言は未来を書き換えているわけではないのじゃ。そんな都合のいいものではない。そんなことができるのじゃったら、もっと世界征服とかしておるのじゃ。もっとも山田もこの予言の力の本質は理解しておるはずなのじゃがな……、まだまだ自覚はできとらんか」

 再び首を傾げたわたしに、くだんが意味深な目を向けてきた。くだんの予言の本質を理解……? もしかしてわたしには隠された能力かなにかでもあるのだろうか。

「呪われし山田の血族ということじゃよ。そもそも山田という姓は、山と田、この旧き国における国力そのものを現しておる。かつては恐れられた山田じゃったが、その記憶は失われ、血も薄まり、平々凡々な姓となってしまったのじゃ」
「くだん……?」
「しかして、突然変異というものがあってな、先祖返りと言うべきか。本来の山田の力を携えたまま生まれてくる者もおる。そういった者は仙骨を有し――」

 なんか聞いたことのある話だなと思ったら、部屋の隅にわたしの大好きだった漫画が積み上がっていた。わたしが働きに出ているあいだ、あの古代中華ファンタジーを全巻読破していたらしい。

 わたしの様子に気がついたくだんは、急に話を断ち切って、「おろ?」とどこかで聞いたことのあるような戸惑いの声を上げた。そっちも読んだのか。暇すぎるだろ。
 
 ※

「ところでやまだ、何か忘れてはおらぬか」
「ああ、そうだ。もうひとつ予言が当たったんだった」
「じゃろうて、じゃろうて」

 わたしは帰りにコンビニで買ってきた牛乳パックを取り出した。牛と人の妖怪だからなのか、この子は牛乳がとても好きだ。今朝も例のパソコンの予言をしたあとに、『あ、そうじゃそうじゃ、それからやまだは美味しい牛乳を帰りに買ってくるぞよ』って都合のいいことを付け足していた。はたしてどこまで予言なのやら。

 ※

 妖怪『件(くだん)』

 その漢字が示すとおり、半人半牛の妖怪だ。ぬりかべとかいったんもめんとか、トラックに轢かれた猫又くらいしか知らなかったわたしは、不勉強ながら存じ上げなかった。

 そのため、某オンライン百科事典やらなんやらを駆使して、その妖怪のことを調べてみた。そこで描かれているイメージ図は、彼女と似ても似つかないものだったが、本人曰く。
「これでもTPOに配慮して化けておるのじゃ。素のわしは結構グロい」
 とのことだった。

 まぁ、それはともかく、そのとき調べた事柄は手帳にメモしてある。

『くだんの予言は外れない』、それがくだんの口癖だ。
 妖怪『件』の予言のちからは、特に凶事の前触れとして語れることが多いらしい。例えば、戦争。例えば、大震災。そういった凶事の前に目撃談が多く、有名なものでは新聞にさえ取り上げられたこともある。

 凶事。
 くだんがわたしの前に現れたのは、わたしが自殺をしようとしていたあの夜だった。くだんの予言の力によりわたしは助けられ、いまでも毎日告げられる予言によって、以前よりはマシな社会生活を送っている。あの自殺未遂を凶事だとするならば、たしかにいろいろなところで収集した妖怪『件』のデータと、くだんの言行は一致しているように思えた。

 そのほか、くだんは、妖怪『件』としての性質以外に、モチーフとなっている牛の性質も強く持っているようだった。なにか不満があるとすぐに『もー!』というし、牛乳ばかり飲む。サラダを出すといつまで経ってももっしゃもっしゃしており、そのげっぷはかなりえげつない。あとで調べて分かったことだが、どうやら牛のゲップに含まれるメタンガスは地球温暖化の原因のひとつとして真剣に問題視されているようだった。

 そして、最後に……。
それは、ネット記事で妖怪『件』を調べてきたときに行き着いたある情報。一応手帳には転記しているものの、到底いまのわたしには受け入れられるものではなかった。

 次々と予言を的中させた妖怪『件』は、その大きな凶事が終わればたちどころに死んでしまう。

「くだんだんだだん」
 妙な登場音とともに背後からくだんの声がして、わたしは反射的に手帳を閉じた。振り返ると、牛柄のパジャマを着た小さな妖怪が目を擦っていた。
「そろそろ寝るのじゃ?」

 手帳に書いたことを見られはしなかっただろうか。いや、そもそもくだんに関することだから見られてもいいのか。でも、知らないかもしれないし……。というわたしの迷いは、眠そうなくだんの愛らしさで霧散してしまった。ああ、なんてかわゆいのだろう。残業で遅くに帰ってきたから、こんな丑三つ時でも、くだんは眠気をこらえて待っていてくれたに違いない。

「ぎゅーってして欲しいのじゃ」
「牛だけに?」
「もー!」

 ※

「はい、ハンバーグ!」
「う……」

 くだんが喜ぶと思って、休みのほとんどを費やして作り上げた手作りハンバーグだったのだけど、くだんはこの世の終わりのような表情をした。ああ、そうか。牛乳を飲むのと、牛の肉を食べるのではまるで意味合いが違うよな。そうだよな。良かれと思って牛肉百パーセントで作ってしまった。

「牛さん……」

 くだんはナイフとフォークを手に、ハンバーグを見つめて涙を流していた。なんだか昔、少年漫画でそういうシーンをみたことがあるな、と思いながらも、わたしはそっとお皿を片付けるのだった。

 ※

『やまだは今日とっても仕事が大変なのじゃが、トイレで自分のよいところを見つけるのじゃ』
『わたしにいいところなんて、ないよ』
『くだんの予言は外れないのじゃ

 そんなくだんの予言が降りたことがあった。たしかにくだんの予言が外れたことは一度もなかったけれど、さすがにその連勝記録もここまでのようだった。わたしのようなダメ人間に、いいところなんてひとつもないのだから。

『それはともかくトイレで?』
『トイレで』
『紙で拭いても跡がつかないくらいすげえ気持ちいいうんこがでるとか?』
『やまだのそういうところがダメだと思うのじゃ』

 仕事中、そんな回想をしていると、同僚から仕事を頼まれた。
「山田くーん、この仕事お願い」
「え、あ、はい」
「山田さん、あの資料の修正はまだですか」
「はい、ただいま……!」

 今日も今日とてせわしない一日が始まった。右から左から来る雑務の依頼にわたしはあたふたと右往左往するばかりだった。たまにくだんのことを思い出したりはするけれど(スマホの待ち受けにしている)、とても今朝の予言のことを気にかけている余裕はなかった。

 ちなみにこれだけ雑務が振られるのは、わたしに大きな仕事がひとつも任されていないからだった。同じチームのみんなはそれぞれ大きなプロジェクトを抱えていて、いつもいつも忙しい。だから、わたしで出来るような簡単な仕事はすべてわたしに回される。みんなとちがってわたしは要領が悪いから、いつもいつも残業をして片付けている状態だ。

「山田くん、シュレッダーがいっぱいなんだけど」
「山田さん、コピーの紙なくなっちゃったんだけど」
「山田くーん、座布団!」

 と、そういったこともわたしの仕事だ。わたしは叩いていた電卓の計算を中断して、すぐに席を立って対応する。コピー機が紙詰まりを起こしたり、パソコンがネットに繋がらないなどのトラブルもわたしが対処する。最初こそもたもたしていたものの、たくさん頼まれるからいまとなってはスムーズに対応できるようになっていた。わたしよりも時間あたりのパフォーマンスが良い同僚の時間を奪うわけにはいかない。

「山田ってさー」

 お昼休み、トイレの個室にこもっていつものようにガチャを回していると、そんな声が聞こえた。ビクッとしたわたしは、すぐに気配を殺す。学生時代、クラスに在籍はしているのに誰からも話しかけられなかった、現代に生ける忍者こと山田さんだ、気配を殺すことに関しては誰よりも上手な自信があった。

「雑用の?」
「そうそう、その山田。この前、議事録お願いしたんだけどさー」

 ああ、あの子だ。わたしの一個下で入社してきた女の子。しまった。急いで仕上げたつもりだったのだけど、どこか間違いでもあっただろうか。もしかしたら起こす音源を間違えていたのかもしれない。手のひらにじとっと汗がにじみ、スマホにイヤホンのコードを差し込もうとしたが、間に合わず、わたしの耳は次の言葉を拾ってしまった。

「なんであんなに早く仕上げてくんの。びっくりしちゃってさー」
「てきぱきしてるよねー」

 わたしは自分の耳を疑った。何をしてもドジだらけで、てきぱきという言葉とはほど遠いところにいるわたしだ。耳にはめようと思っていたコードを手放し、わたしは音を立てずに、トイレの個室の扉に耳をつけた。

「一度あいつがインフルエンザで休んだときあったじゃん? あのときにどうしてもやらないといけない議事録があって自分でやってみたんだけど、全然うまくいかなくてさー」

 ああ、あの子は北斗神拳みたいなタイピングしかできないから……。
 わたしは中学校の頃から夢のある小説を書いていた。少年誌の好きなキャラクターとわたしがドラマティックな恋に落ちるタイプの、夢のある小説だ。誰かに見られたら憤死するタイプのそれ。

 母のお下がりでもらった分厚いノートパソコンで、時間のあるときはそればっかりしていた。そこで培ったタイピング能力だったが、まさかこんなところで役に立つとは。古代中国でかわしたあの道士との熱い恋は無駄ではなかったというわけだ。

「ふ、ふひ。ふひひひひ……」
「ね、ねえ。なんかあの個室から怪しげな笑い声が聞こえない?」
「……き、聞こえる!」

 三階階段近くの女子トイレ、手前から三番目の個室――、三回ノックするとだとか三回回るとだとか、余計な尾ひれがついて弊社七不思議のひとつとなるのだが、それはまた別の話。

 ※

『ラプラスの悪魔』という言葉がある。

 妖怪『件』についていろいろ調べていたら、いくつかのリンクをたどってたどり着いた単語だった。ラプラスの悪魔、というものものしい名前がついているが、魑魅魍魎の類ではない。わたしもしっかり理解してはいないけれど、それはある思考実験から生まれた架空の存在だった。

『もし、全宇宙の全原子の位置と運動量が正確に把握できているならば、今後この宇宙で起こるすべてのことは計算によりすべて予言できる』

 その記事曰く、量子力学の成立によりこの仮説は否定されたということらしかったけれども、わたしはこの悪魔にくだんとの共通性を感じずにはいられなかった。そのほかにも、これからこの世界で起こるすべてのことが書かれているという『アカシックレコード』や『アーカーシャ』、似たような伝承は多く見つかった。洋の東西を問わず、古代から現代まで、未来を予言するということは変わらぬ人類の夢だったのだろう。

「やまだー、やまだー」

 くだんの予言は絶対だった。わたしと出会った頃の『お主はまだ死ねんよ』という予言からずっと、くだんの予言は外れたことがない。人の身ではその予言がどのように発動しているのか、まったく想像することもできないが、くだんにとってこの世界はどのように見えているのだろう。

 もし『ラプラスの悪魔』のように、これから起こることすべてがわかっているのであれば、それはとてもとてもつらいことなのかもしれないと、わたしはそう感じた。

「やまだー?」

 目の前の小さな妖怪は、わたしのそんな想いなど気にしていないようで、のんきに牛乳を飲んで、白い髭を生やしている。まぁ、いいや。とりあえずいまはこの小さく愛らしい妖怪の、新たな予言を聞くとしよう。

 ※

『山田は今日怒られるが、笑顔で済んでしまうのじゃ』
『まさかー』
『くだんの予言は外れないのじゃ

 そんなくだんの予言が降りたことがあった。ほとんど毎日何かしらをしでかして怒られているわたしでも、その日はマジでへこんでしまうようなことがあった。

 具体例を挙げろと言われるかもしれないが、ちょっと筆舌に尽くしがたい。些細なミスから始まったダメピタゴラスイッチ。安易なクリックが原因で、あんなことになるなんて誰も想像できるわけがない。まさか、アレがああなって、コレがそうなって、部長のソレがあんなに伸びるだなんて。

 そういうときはトイレでひとしきり落ち込むのだけど、この日に限っては部長に叱られているときに、くだんの予言が脳裏に蘇った。

『山田は今日怒られるが、笑顔で済んでしまうのじゃ』。

「はい、はい。申し訳ありません。今後は同じようなことがないように――」
「ん、なんだね、山田君」

 部長の鼻から、お毛毛がこんにちはしていた。元気な子だ。しかもどうやら三兄弟でであるようだ。切り込み隊長的に飛び出していく長男と、どっしり太い次男、そして臆病で引っ込み思案だけれど、上の兄弟に必死についていこうとする臆病な三男。といった感じだろうか。
 真一文字に結んだ唇がひくひくと動いてしまう。

「何がそんなに嬉しいのだね」
 必死に隠していたのだけど、どうやらにやにやが隠しきれなかったらしい。やばい! 内心であたふたしながら必死に考えを巡らし、どうにかそれらしい文句を思いつくことができた。

「はい。嬉しいんです」
「は?」

 わたしは部長の目をまっすぐに見つめて、続けた。

「わたしは失敗ばかりでどうしようもない社員です。しかし、見捨てることなく、こうして教育してくださるということは、本当に幸せなことなのだと噛み締めているんです」

 笑い出しそうになったときは、実際に頬の奥を噛み締めていた。部長は怪訝な顔をしながら、それでも言われたことを否定するわけにもいかず、『今後は気をつけるんだぞ』で締めて解放してくれた。

 こんなに無事に終わったのは初めてだった。

 部長室を出ると、聞き耳を立てていた同期くんとばったり眼が合った。狐に摘ままれたような顔をしている。そりゃそうだ。いつもわたしは泣きはらした顔で、この世のすべてに絶望したようなオーラをまとって出てくるものだから、今日の爽やかな笑顔が信じられないのだろう。

「や、山田、大丈夫?」

 逆に心配される始末である。

「大丈夫です。『今日は怒られるけど、ついつい笑顔になっちゃう』って、よく当たる占いに書いてありましたから。そのとおりになりました」

 ありがとう、くだん。いまごろ毛布にくるまってすやすや眠っているであろう小さな愛らしい妖怪に、わたしは感謝したのだった。その後、待ち受け画面にしていたくだんの写真を見つめ続けていたら小一時間が経過していて、ほんとうに心配されたわたしだった。

 ※

「そういえば、わたしのタブレットで何を調べているの?」
 そう声をかけると、くだんはぎくっと肩を驚かせた。

 余っているタブレット端末があったので、くだんに貸していたのだ。どうやら妖怪や八百万の神様専用のSNSがあるらしくて、それをやりたいらしかった。『Faithbook』とか『八百万ちゃんねる』という見慣れているようで見慣れていない謎のアプリがインストールされていたのを覚えている。

 それはさておき、どうやらくだんはわたしのタブレットで良からぬことをしているようだった。だってあからさまにビクッとしていたし、いまは口笛を吹きながら目線をそらしてタブレットをスリープにしようとしている。

「まさかいかがわしいサイトとか見てるんじゃないでしょうね!」
「あぁ、ちがうのじゃ!」
「じゃあ、見てもいいでしょ?」
「でも……」

 嫌がるくだんだったが、さすがにそのタブレットはわたしのものだ。何か変なサイトにアクセスをして高額請求されてもたまらないし、ウィルスとかで壊されても困る。

「いいから見せなさい!」

 もーもーわめくくだんからタブレットを取り上げると、なんとその画面には『ヒンドゥー教』のウィキペディアが表示されていた。履歴を辿ると、それ関連の検索ワードばかり叩かれていて、中にはアンサイクロペディアまでも含まれていた。ああ、そういえば、ヒンドゥー教は牛を神聖視する――。

「もしかしてこのレベルで崇められたいの……?」
「もー!」
 と、まくらに顔を押し付けてばたばたするくだんだった。

 ※

「山田、あれだけ言われてよくめげないな」

 休憩コーナーの自動販売機で缶コーヒーを買っていると、同期くんが呆れたように言ってきた。彼はわたしとはちがってめきめき業績を上げて、いまではとても同期とは思えない働きぶりをしている。わたしがどんどん落ちぶれているだけなのかもしれないが。とはいえ、彼はいまでもわたしを同期だと思ってくれているらしく、飲み会とかで動けなくなったわたしを介抱とかしてくれる。わりといいやつ。

「めげますよ」
 わたしはプシュッと、プルタブを開く。
「でも、わたしを待っているひとがいるから頑張れるんです」

 いままでのわたしならきっとそんなことは言わなかっただろう。彼は、あからさまに慌てたそぶりを見せた。顔まで赤くして。そんなに怒っているのだろうか。なんだろう。わたしに待っているひとがいたらいけないのか。少しだけむっとした。

 ※

『やまだは明日早起きをして、お化粧をいつも以上に頑張るのじゃ。すると、隠れてやまだを見ている誰かさんがハッと恋に落ちるのじゃ』

 くだんの小さな身体を抱いて眠るのが日課だった。ミルクの匂いがするから、よく眠れる。この予言はそのとき、ふたりで眼を閉じておやすみなさいと言ったときに賜ったものだ。

 実際、翌日は早起きでしたし、二度寝するのもなんだからと化粧をがんばってみたものの、隠れてわたしを見ている誰かさんというのがわからなかった。そういえば、同期君がわたしのほうをちらちらと見ていた。ミスをするのでも待っていたのだろうか。

『あるミスをしてしまったやまだは落ち込んでしまうのじゃが、なぜだかいつもよりは落ち込まないのじゃ』
『今日のやまだはよく笑うのじゃ。お昼ご飯も美味しいし、ハッピーなのじゃ』
『それと、最高級の牛乳を買ってくるのじゃ。わしのために』

 くだんの予言は次々と的中していった。最近はそれを指針にして一日の行動を決めているくらい。以前の消えてなくなりそうな気持ちはまだ少しだけあるのだけど、何があってもへっちゃらという気持ちを持つことが出来た。そのあとに素敵なことが待っていると言うことが担保されているのだから、目の前の小さな嫌なことも気にならなくなってきたのだ。

 残業続きの毎日で、相変わらず全然くだんに構っていられない。けれど、一日の中で誰かに謝っている回数は減ったように思う。あのタイピングの件もあって、仕事にも少しだけ、ほんのちょっぴりだけど、自信が出てきた。いままではいつこの拷問のような日々が終わるのかと言うことばかり気にしていたのだけど、いまでは明日は何が起こるんだろうと思いながら、眠ることが出来ていた。

 最近あったいやなことと言えば、同期くんが何度も何度も遊園地のチケットが余ったからといって誘ってくるから、仕方なしに了承してしまったことだ。せっかくのくだんと過ごす休日がひとつ潰れてしまった。っていうか、余りすぎだろ遊園地のチケット。大株主かなんかなのか。

 それはともかく、わたしの人生にしては珍しく、物事がうまく運んでいるように思えた。だから、わたしは忘れてしまっていた。目の前に確実に横たわる現実を、自然と見ないようにしていたんだ。

 同期くんとの遊園地を翌日に控えたその日、溜まっていた仕事はその同期くんが肩代わりをしてくれた。午後九時過ぎにアパートへ帰ると、くだんが倒れていた。わたしは最高級の牛乳パックが入った袋を取り落とした。

 ※
 
 件(くだん)
 それは半人半牛の姿をした妖怪。作物の吉凶や流行病、旱魃、戦争など重大な凶事に関して様々な予言をし、それは間違いなく起こる。くだんは嘘をつかない妖怪とされ、証文の末尾にその名前が引用されたくらいだったという。

 そして、くだんという妖怪は、凶事が終わるとたちどころに死ぬとされる。

 わたしは最初にウィキペディアで調べたとき、その事実を認識していた。が、天真爛漫に笑うくだんを前に、それが事実であるとは理解できていなかった。言い伝えと、このくだんはちがう。そう都合よく解釈をしていたんだ。

「くだん!」

 くだんは『凶事』の前に現れるという。凶事。それはわたしの自殺未遂。人生への絶望だろう。言い伝えどおりくだんは凶事の前に現れて、様々な予言をしていった。くだんとの生活は楽しかった。くだんの予言のおかげで、最近は仕事ぶりを認められたり、休日に逢うような友人ができたり、いろいろと人生が前向きに進んでいるような気がしていたのだ。
 くだんという妖怪は凶事が終わるとたちどころに死ぬとされる。

「嫌だよ! これでおしまいだなんて、くだん!」

 倒れているくだんに駆け寄る。実はわたしは彼女のからだに触れるまで、もしかして昼寝でもしているんじゃないかと期待をしていた。しかし、抱きしめたくだんの身体はいやに存在感がなく、いまにも消え失せてしまいそうなものだった。軽薄な期待をしていた自分が嫌になる。くだんのあの記述から目を逸していた自分が嫌になる。きちんと向き合っていれば、あえてくだんの予言に従わないことで、くだんの死を回避できたかもしれないのに。あるいは――。

「やまだ……」
 消え入りそうなくだんの声だった。

 あるいは、わたしの凶事を終わらせなければ、くだんがその使命を終えることもなかったかもしれない。そうだ、わたしの凶事はまだ続いている。まだ続けることが出来る。

「くだん、待ってて、いま……!」

 わたしはすぐさまアパートの外に駆け出そうとした。適当な車に轢かれてしまえばいい。自殺を試みてしまえばいい。自殺を選ぶだなんて、生き物として最悪の凶事だろう。そうすればくだんを繋ぎ止められる。

 そんなことを考えていたわたしの背中に、くだんの無慈悲な言葉が投げかけられた。

「やまだとはここでお別れなのじゃ」
「うそ……」
「くだんの予言は外れないのじゃ」

 それはよく知っている。痛いほど知っている。それが具体的であれ抽象的であれ、その予言は必ず未来で結ばれる。それはわたしがみずから引き起こそうとしている凶事が、くだんにとって無意味であるという宣告だった。わたしは自分の甘い計算を諦め、くだんに向き合うことにした。こうなってしまえば、一分一秒が惜しかった。

「くだん、わたしね、結構最近楽しいんだ。くだんの予言もあって、いろいろなことがうまく回り始めている。やっぱり凶事が終わり始めているのかもしれないね……。でも、いま、ちっとも嬉しくないよ」

 涙でぐしゃぐしゃであろうわたしの顔に、くだんはにゃははと笑った。

「やまだは、これからたくさんのことを経験するのじゃ。辛いことも楽しいことも、たくさんたくさん。ときにはいつかの夜道のように、投げ出してしまうこともあるのじゃ。けれど、やまだはな、それを乗り越えてしまうのじゃ。振り返ってみれば、大したことじゃなかったねと大切なひとと笑いながら――」

 くだんの身体が一段と軽くなる。

「ダメだよ。わたしがうまくやれたのは、くだんがいっしょにいてくれたからだからだよ。わたしのようなダメ人間には、もっともっと、くだんがそばにいてくれないと」

 言いながら、わたしは自分で気づいていた。くだんの予言は外れない。くだんもわたしが悟ったことを理解したのか、追求することはしなかった。あるいはもうそんな体力すら残っていないのかもしれない。
 わたしはくだんの口元に耳を近づける。

「それでな、たまにはほんちょっとだけ、わしのような妖怪と過ごしていたということを思い出して欲しかったりするのじゃ」
 くだんの最後の言葉は、予言ではないものだった。

 けれど、その言葉は絶対に外れることはない。わたしが外させない。こんなにも小さく愛らしい妖怪といっしょに過ごした日々は、忘れたくても忘れられない。

 ※

 それから一週間会社を休んだ。

 当然、同期くんとの遊園地もそれどころではなかったので、断りを入れた。急に会社に来なくなったわたしを心配してか、なんだか色々携帯電話に連絡が入っていたが、返信をする体力はまだなかった。

 ※

「山田くん、くだんの会議資料は出来上がっているのかね」
「あ、はい! ただいま!」

 課長に声をかけられたわたしは、慌てて身体を捻ってしまったせいで、机の上のコーヒーカップを倒してしまった。「あわわわ……」と黒く染まっていく会議資料を前にあたふたしていると、今度は卓上加湿器を倒してしまう。

「すみません、すみません!」
 わたしは頭を何度も下げる。あぁ、溜まっている仕事は全然片付かないし、このようなミスもしてしまう。くだんはもういない。昨日も昨日で怒られたし、わたしはなんて――。

 と、自動で思考が進んだところで、わたしははたと立ち止まった。

 わたしはくだんといっしょだったのだと、いまようやく気がついた。

 ※
 
 わたしは何をやってもダメな人間だった。

 小さな頃から、そう痛感することが何度もあった。周りの子たちにわたしだけついていけなかったり、みんなが想定すらもしないようなミスをわたしは容易に引き起こすことができた。ちょっと考えればわかるようなことも、わたしはいつまでたっても気づくことができず、取り返しのつかないミスをしてしまう。

 わたしがダメだから。

 そんな呪いを、言霊を、予言を、毎日のように自分自身へかけていた。だからその予言は成就して、『頑張っているんだけど、結局ダメなわたし』が叶えられていったのだろう。

 くだんはそれを教えるために、わたしの前に現れてくれたのかもしれなかった。

 すみません。すみません。申し訳ありません。わたしがミスをしたのだから、それはそうだ。会社の備品も壊してしまった。そりゃ申し訳ない。だけど、『わたしがダメだから』と安易に結論づけてしまうのはやめようと思った。

『あるミスをしてしまったやまだは落ち込んでしまうのじゃが、いつもよりは落ち込まないのじゃ』
『今日のやまだはよく笑うのじゃ。お昼ご飯も美味しいし、ハッピーなのじゃ』

 くだんの予言のように、前向きなことを考えてみよう。そうすればやり方だって見えてくる。コーヒーカップや加湿器が倒れないためには。そもそもこんなにテンパらないためには。まず資料が遅れたのが原因だから、計画的に物事を進めるためには。

 ――落ち込んでなんて、いられない。
 
 ※

「なぁ、もしかして怒ってる?」

 お昼休み、自動販売機でコーヒーを買おうとしていると、同期くんに話しかけられた。彼はなんだか申し訳なさそうにしていたが、もともと約束をドタキャンしたのはわたしのほうだった。

「ちょうど謝ろうとしていたところ。ごめん。一緒に行けなくて。ちょっと私事でどたばたしていて」

 それを聞くと、同期くんはホッとしたような顔をした。ふむ。どうやら、同期くんは自分が何かしてしまってわたしが怒り出してしまい、遊園地をドタキャンし、会社を休んでいたのだと思っていたのだろうか。

 とんでもない。同期くんには仕事もいくつか変わってもらったし、励ましてもらったこともある。飲み会で潰れた時は助けてもらったし。感謝こそすれ、怒る理由なんてひとつもない。

 むしろ――。

 わたしは自分が考えてしまったことに驚いた。むしろ。むしろ。わたしはなんと続けようとしたのだろう。フリーズしていると、同期君は耳まで真っ赤にしながら、口を開いた。

「その、山田さえよければ、今度の休みにまた――」
「よ、よろこんで!」

 食い気味に返事をしてしまい、ふたりのあいだに微妙な空気が流れる。このあともまだまだ色々なことがあるのだけど、それはくだんの件とは別のお話。『くだんといっしょ』だったわたしの物語は、これでおしまいだ。
 
 だけど、最後にひとつだけ、これだけは言っておきたい。
 これからどんなことがあっても大丈夫だということを、わたしは知っているのだ!