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EPRペア・メモリーズ
掃きだめのような街で育ったが、その中でも俺の家は底辺も底辺だった。クラスメイトがぴかぴかのスニーカーを履いている時、俺はよれよれのおさがりのサンダルを履いていた。サンダルの利点は、雨が降って濡れても洗濯の必要性がさしてないということだった。また、そのクラスメイトが実際そうなったように、一週間後、何者かに靴をずたずたにされて、ごみばこの中に放り込まれているなんてリスクがない点も利点といっていいだろう。クラスメイトの靴を切り刻んだのは、隣のクラスのルーカスという男で、俺の友人だった。
何の話をしようか。そう、ルーカスの話をしよう。俺たちは気が合った。何故なら家が貧しかったからだ。ルーカスは痩せぎすで、まだらの肌を持っていた。何故まだらかというと、親によく殴られていたからだ。奴の体は八割黒人で、残りの二割がスペイン人だった。赤銅色の肌には東インド諸島みたいに青あざが点々と分布していて、奴を一層異国の人間に見せていた。
対する俺は貧しいだけだった。親に暴力を振るわれたことはない。爪に火をともすような生活だったが、それでも誰もその状況に癇癪を起こしたりはしなかった。父も母も兄も妹も、まるでろうそくの火が静かに揺れるみたいに、毎日をそっと生きていた。だからこそ、貧しかったのかもしれない。現状に何の不満もいだかなかったからこそ、我々は貧しかったのかもしれない。クリスマスの日に小さなプディングを準備して、祖父母から受け継いだ比較的上等な聖書を開いて、聖句をひとつふたつ朗読してみせるのが、唯一の贅沢らしい贅沢だった。うちの家系は代々信心深かった。
そんな俺だから、教室では、そう、まるで息を殺すように生きていた。きっと本当に呼吸を止めれば、壁と同化することだってできただろう。別に友人がいなかったわけではない。むしろ、クラスメイトとはよく話す方だった。でも、クラスメイトとよく話す人間が孤独じゃないとは限らない。多くのクラスメイトは、きっと教室で飼っているハムスターにだって毎日話しかけていたし、空を流れる雲になんとはなしに独り言をもらす瞬間だってあったろう。つまり、話し相手というのは、必ずしも特定の人格を持った誰かでなければならないわけではないのだ。少なくとも、そういう相手が不要な会話というのが、一定数世の中にはあるものだ。俺は、そういう時、ふっと壁際から浮上して会話に参加する。そうして、話が具体化して、特定の人格を求めて彷徨う時、またふっと壁際に戻っていく。俺は、そういうのが抜群にうまかった。つまり、孤独だったのだ。
ルーカスは、そういう意味で俺が唯一心を許した人間だったのかもしれない。お互いにとびきり貧しい環境で育っていたから、その時点で共通点があった。でも、それだけだ。親しくなったきっかけがあった。
ある時、あいつが――ルーカスだ、ルーカスの話だ――あいつが運動場の水道で腕を洗っていた。腕は膨れ上がり、赤く腫れていた。おそらく上級生と喧嘩でもしたのだと思う。とにかくあいつは腕を水道で洗っていた。二の腕も肩も全部だ。その関係で奴は、服を脱いでいた。ズボンは履いていた。とにかく上半身の肌が見えていたせいで、奴の東インド諸島がくっきりと俺の目に飛び込んできたのだった。
俺は呟いていた。なんと呟いたのか忘れてしまったが、東インド諸島に浮かぶ島の名前だったと思う。だって、あまりに似ていたのだ。それを前の晩、図書館から借りてきた本の挿絵で俺は知っていた。島の半分を形成する入り江の部分も、もう半分にわずかに盛り上がるなだらかな山の同心円も。奴は振り向いた。自分が何を言われたかわからなかったことだろう。それは当然のことだ。人の一生で、自分に向かって東インド諸島の島の名前を呟かれる経験は、そうあることではないだろう。とにかく奴は振り向いて、怪訝な顔をしていた。俺は、とりつくように謝罪の言葉を述べ、これは島の名前なのだと説明した。とても美しい島なのだと。奴は変人を見る目で俺を見ていたが、幸いにも怒ってはいないようだった。
それが俺たちが友達になるきっかけだった。つまり、通常起こりえない会話が長引いた結果、俺たちは互いの人生で最も長く会話した同世代になったのだった。長く会話する同世代は大抵友達といって差し支えないだろう。だから、俺たちはよくつるむようになった。
ルーカスと俺は何から何まで正反対だった。たとえば、俺は壁際と同化することに関しては大家だったが、ルーカスにはそれが無理だった。奴の堪忍袋の緒は極度に短く、液体ダイナマイトみたいにいつも爆発の危険があった。俺と奴はクラスが違ったから、俺は実際に奴の実害を受けることはなかったが、奴のクラスはもう本当にひどかったらしい。授業にならないほどだったそうだ。とにかくクラスメイトだの、教師だの、壁の張り紙だの、空の青さだの、そういうものが気にくわなくて、ルーカスは爆発するのだ。あだ名が爆発ルーカスだった。そうなれば、奴は、授業中だろうが、ホームルームだろうが関係なくクラスメイトに躍りかかり、クラスメイトが朝三十分はかけただろう綺麗にセットした髪をめちゃくちゃにしたり、親から買ってもらった新しい服のボタンを引きちぎったりした。もちろん、付録として、ルーカスの強襲にあったクラスメイトの顔がぼこぼこのじゃがいもみたいになってしまう事実も忘れてはならない。奴は反省室の常連だった。
俺は大丈夫だった。俺たちは不滅の友情で結ばれた友達だった。……などといえたらいいのだが。真実は違って、俺も相当殴られたし、蹴られた。けれど、噂で聞くほどではなかった。大抵の場合、奴は気持ちより先に手が動いて、俺を張り倒したり、あるいは俺の足を蹴り上げたりしたが、別に奴は俺を張り倒したり、蹴り上げたりしたかったわけではないのだ。そこに郵便ポストがあれば、奴はその郵便ポストを蹴っていただろうし、桜の木があれば、その桜の木を殴っていただろう。要は、そこでも俺は代替可能な風景のひとつで、俺はそういう事態によく慣れ親しんでいたのだ。ただ、唯一奴が俺のクラスの連中と違っていたのは、張り倒したり蹴り上げたりした後には、すぐにはっとして、もごもごと俺に向けてごめんと謝ってくれることだった。俺はその瞬間がたまらなく好きだった。というのは、その瞬間、奴は風景ではなく世界で唯一俺に話しかけているからなのだった。そういう経験は俺にとって貴重だった。いいよ、とそのたび俺は言っていたように思う。
そう、奴は謝ることができる人間だった。意外なことに。奴は、いつも自分のおこないを恥じていた。けれど、奴の心に火が灯ると、もはや体は奴の意を離れて自動的に動き、百年前からそうだったみたいにスムーズに事態を着火させるのだ。奴は、常にそのことに悩んでいるようだった。本当は、こんなことはしたくないのだと言っていた。でも、どうしても我慢できないし、いざそうなった時には既に体が動いているのだ。俺は、不定期に相槌を打ちながら彼の話を静かに聞き終え、まるで兵器のようだと言った。きっと君の脳が解析されれば、恐れを知らず殺戮の限りを尽くす優秀な兵士が量産できるのではないかと。次の瞬間俺は張り倒されていた。
薄々わかっていたことだが、奴の性格がこうなった原因は、おそらく奴の家庭環境にあった。生まれた瞬間から、母親を張り倒すことができる赤ん坊は、おそらく稀なことだろう。できたら、その赤ん坊は現代の仏陀になれると思う。仏陀は生まれた瞬間から、老人で、歩き、言葉を喋ったらしい。先生が言っていたから、これは確かなことだろう。ルーカスは仏陀ではなかった。誰かが、成長の過程で、ルーカスに兵器としての英才教育をほどこしたのだ。わかりきった話だが、それは家族だった。奴の父親はお世辞にも善良な人間ではなかった。父親は父親で、日々アルコールによる英才教育を自身にほどこしていた。それはとても行き届いた教育で、多額の教育費と引き換えに、幼いルーカスの顔や体をぼこぼこにした。ぼこぼこにされたルーカスは、父親より低予算に人をぼこぼこにするすべを身に着けた。ルーカスは酒が嫌いだった。あんなものがなくても人は殴れると彼は知っていたのだろう。その点で、ルーカスは、自身の父親より一段階優れていたと思う。それを彼が喜んでいたかは知らないが。時折不意に流す涙が、俺の知る涙と同じ意味を持つなら、おそらく違うだろう。奴は、自分自身が嫌いだった。
一方の俺はどうだろうか。何が俺をこのように英才教育したのか。ルーカスが最強の兵士になれるなら、俺は同じように最強の暗殺者になれたことだろう。壁と同化する能力を持った暗殺者はそうそういないと思う。だが、別に俺は親に殴られたわけではない。誰も俺に英才教育はしていない。にもかかわらず俺はこうだった。聖書が悪いのだろうか。それともプディングだろうか。しかし、それは俺の家だからこそトピックスにあがることで、普通の中流家庭にも、タンスの引き出しに聖書は入っているだろうし、クリスマスにはプディングを作るだろう。また、そうであるなら、俺の家族、あるいは兄弟たちも同様の能力を会得していてもいいはずである。しかし、こんな能力を持っているのは、多分うちの家系でも俺だけだ。ルーカスが英才教育なら、俺はいわば突然変異なのかもしれない。アルビノの馬の群れに生まれた、一頭の透明な馬だ。
学校で、俺たちの友情に気付いた人間はいなかったと思う。手前みそだが、俺はそういう点で巧妙に隠れるのが本当にうまかった。いや、隠れる必要すらなく、人の意識から自分を外すのがうまかったのだ。もしかして、ルーカスの方は違ったかもしれない。奴が時折放課後校舎裏で時間をつぶすことを、奴のクラスメイトや教師は知っていたかもしれない。知っている者は、実際に陰からその様子を覗いたこともあったかもしれない。だが、その時、奴のクラスメイトには、ルーカスが一人で虚空に向かって語り掛けているかのように映ったことだろう。もちろん、網膜はその場にいる俺と言う話し相手を捉えている。だが、脳がそれを処理しない。ルーカスばかりが目立ち、俺は奴らの中でただの書き割りの通行人Åになる。あとで名前を思い出されることもない。まるで魔法のようだが、極度に無関心が極まると、人はそうなるものなのだ。
だから、俺たちの蜜月はバレることなく長く続いた。蜜月というほど深く仲がよかったかというと、今思えばそうでもない。ただ、つるんでいただけだ。だが、お互いに他につるむ相手がいなかった。とすれば、どんなに関係が浅かろうが深かろうが、互いが互いの唯一無二の存在になることは当然の帰結というものだ。俺の青春にはルーカスしかいなかったし、ルーカスもそうだったろう。たった一人きりだけを収めたごく薄いアルバムのようだ。今となっては、擦り切れて細部はよく思い出せない。
長く続いた蜜月だったが、終わりはあっけなかった。進学し、それぞれ通う学校が変わったのだ。俺たちがそれまで通っていた学校は底辺も底辺だったから、それぞれの進学先も推して知るべしだが、ルーカスの方が幾分ひどく、俺の方が幾分マシだった。なにせ、俺の新しい学校には、制服があったのだ。それはマントのようなもので、特別な行事の際に、私服のうえから羽織る程度のものだったが、この世にいわゆる制服というものが実在する事実に、俺はその時始めて気付いたのだった。制服があるということは、マシな学校だろう。食事をとる時アーメンの唱和があれば、その印象は更に強まっただろうが、残念なことにそういうイベントはなかったので、わずかにマシなだけだったが。事前に彼自身が見せてくれた学校案内によれば、ルーカスの通った学校には制服はないようだった。校舎の写真のぼろぼろ具合から見て、机と椅子が人数分あるのかどうかもあやしかった。こんな薄そうな壁、奴が癇癪を起こしたら、簡単に崩れてしまうのではないかと、俺は他人事ながら心配したものだ。
進学以降、ルーカスとは会ってはいない。というのは、早々に奴が死んでしまったからだ。
進学して、底辺の中でもひどい学校に進学したルーカスは、別に壁を壊そうとしたわけではないと思うが、今までと同様爆発ルーカスだったようだ。ただ、今までと違うのは、その底辺校の場合、爆発するのはルーカスだけではなく、また相手にはナイフを購入する程度の小遣いがあったということだった。これはすべて後で聞いた話だ。断片的な地域の噂を寄り合わせたに過ぎない。とにかくルーカスは、入学後何度目かもわからない喧嘩の中、ある時死んだ。腹部を刺されてグラウンドが赤く染まったとも聞いたし、首を一刀のもと切り捨てられ、最後に相手の足に飛んだ首で噛みついたとも聞いた。後者は、さすがにないとは思うが、奴だったらありえなくはない話だとは思う。なにせ、奴は自動的な戦士で、奴の暴力に彼の意志は必要なかった。であれば、死んで意識が消失してからも相手に噛みつくくらいのことはできるのかもしれない。それは、なんだかルーカスらしくていいように思う。
どの噂もルーカスが死んだ点については変わらなかった。であれば、どの噂を信じるにしても、たしかに奴は死んでいるのだろう。その話を俺は、また今までと同様、空気に同化しながら聞いていた。へえと相槌を打ち、時にはクラスの風景としておかしくない程度に笑ってみせたりもした。不思議なことだが、ルーカスの死を聞いた瞬間、俺の中に感傷めいた気持ちは何も浮かばなかった。俺はいつものように会話の輪の中で背景に徹していたし、単純な脳みそは、ルーカスとは誰だっけとまで思ったかもしれない。すべてが自動的で、俺の意志とは無関係に、俺を笑顔にさせた。
ある日、俺はルーカスの家を探してみることにした。奴と毎日のように会話していたあの頃でも、奴の家に行ったことはなかった。奴がそれをひどく嫌がったからだ。互いの嫌がることをあえてするような関係ではなかった。互いに踏み込んではいけないところに、綺麗に踏み込まないでくれるからこそ居心地のいい関係だったのだと思う。ただ、奴の死を聞いて何の感傷も浮かばなかった時、俺は不意に怖くなった。もしかして、奴の家を見つけた瞬間、感傷もまた見つかってくれるのではないかと俺は淡い期待を持っていた。
結論として、奴の家は見つからなかった。奴が住んでいた地域はなんとなく知っていた。途中まで一緒に帰ったことがあったからだ。成長した背丈と歩幅で、おぼろげな記憶をたよりに俺は奴の家を探した。しかし、当時二人で帰った道程の先に、結局、奴の家らしきものはなかった。町の様子は当時と様変わりしており、いったいいつからそこに建っていたのかあやしくなるほど劣化した茶色の集合アパートは、半分くらい立て壊されており、いくつかの真新しいビルが工事中の鉄骨をさらしていた。区画整理の結果として、街は古びて汚くて底辺なものを追い出しにかかっている。行政がルーカスの痕跡を押し流してしまっていた。もちろん、市長は、ルーカスを押し流すために、申請書類にハンコをスタンプしたわけではないのだろうが。結果としては、そうだった。
俺は途方に暮れた。さびしい思いになった。いや、本当は途方にも暮れてなければ、さびしい思いもしていなかったろう。少なくとも、それを感じていたのは、俺ではなかった。俺の中の、かつてルーカスと相対していた俺がそう感じていたのだ。どこかで。どこかでつながっている気がしていた。離れていても。学校が変わっても。俺の中でかつてルーカスとつながっていた部分は、まるで離れ離れになった量子がお互いの関係を知っているように、いっさいの交流がなくとも奴を知っていた。同時に、その俺は、やはり量子がそうであるように、奴の死を観測した瞬間、変質し、死んでしまったのではないか。あの東インド諸島のまだら模様の背中と、腫れた頬、痩せぎすのルーカス、張り倒されてその後はっとして涙を見せたルーカス、自分のことが嫌いだったルーカス。奴とラムネ瓶を飲んだことがあった。大枚をはたいて買ったラムネ瓶を二人で分けた。その味を思い出せない。その味をおぼえている俺は、ルーカスの死といっしょに死んでしまった。ルーカス。世界で唯一俺に話しかけてくれた男。でも、もういない。俺に話しかけてくれる人間はいなくなってしまった。その瞬間俺は自分の質量が薄くなった感覚がした。俺は俺の意味を失ってしまった。もちろん、この先も俺は生きていくだろう。けれど、その俺は誰でもないのだ。俺の俺らしい部分は、すべてルーカスが持っていってしまった。卑怯な男。なんてかわいそうな。気づけば、俺は泣いていた。泣きながらも、口元はうすっぺらく笑っていた。多分表情を形づくっていたのは、いつもの俺で、流した涙はルーカスとつながっていた頃の俺の、最後の血液だったろう。
それが最後だ。それがすべてだ。ルーカスの物語はこれで幕を閉じる。俺が俺であった頃の物語が幕を下ろしたのと同じように。ご清聴ありがとう。