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明日咲く花

1. 垂珠たれじゅ寺院

 月を見ていた。
月は陽炎のように次第に形をぼかしていき、かけらが雫のように空から落ちていった。
月の顔は人の顔とは違う。
けれども月が泣いているのだという事は、わたしにもわかったのだ。

 それがわたしの見た夢。
ここ垂珠たれじゅ寺院では、子どもたちが集まって暮らして夢を見る。
朝起きると、いつものように、みんなは夢の中身を話し合っていた。
聞くと、周りの子どもたちは「神さま」の話をしている。そういえば今日は月曜日だった。
この曜日には皆、「神さま」の夢を見る。
月曜日は男の「神さま」の夢を見る日なのだ。
別の曜日には「女神さま」の夢を見る日がある。
男の子が見る夢と女の子が見る夢は別れている。
男の子は男の「神さま」の夢を見て、女の子は「女神さま」の夢を見る。
小さい頃には、男の子も女の子も同じ夢を見る。
その時に出てくる「神さま」は、男とも女とも付かない。
食べ物や乗り物が人になったような姿をしている。
男の子は、棒きれを持って野山を駆け回る年になると、
女の子は、花飾りや縫い物、自分を飾るものに興味を持つ年になると、
それぞれ違う夢を見るようになるのだ。
今日は男の子の夢を見る曜日だけれど、みんなが見られるというわけじゃなくって、見られない子どももいる。
そういう子たちは、話に入れず仲間外れになってしまう。
丁度、わたしのように。
他の子たちは、決まった曜日にだけ夢を見ることが多い。
わたしは決まった曜日以外にも、自分で思い描く夢を見ることがある。
みんなと同じ夢を見るのは嫌いじゃないけれど、他の夢を見てしまうと話に入れなくなる。
けれども、わたしの話をちゃんと聞いてくれる子がいる。
「かすみちゃん、また夢を見たの? よかったら聞かせて」
片桐みお、彼女はわたしにそう言ってくれる。
だから、わたしは彼女の話もちゃんと聞くようにしているのだ。
けれども今日みたいにわたししか夢を見ていないと、わたしが一方的に話すことになる。
前はみおも毎日夢を見ていたのに、最近はその回数が下がってきている。
今では、ほとんどの日に、わたしだけが話すようになっていた。

 普段は、ここには子どもたちしかいない。
大人は、世話係の人たちが数人いるだけ。
わたしとみおは「見張り」って呼んでいる。
時々は、お母さんやお父さんがやってきて、子どもたちに会いに来る。
他の子どもをいじめたり、物を壊したりする悪い子は、お母さんやお父さんに叱られている。
夢で出てきた「神さま」に懲らしめられたりするぞとたしなめられていたりする。
わたしは夢の外で「神さま」を見たことはない。
けれど、きっとどこかにはいるのだろう。

 夢は未来の出来事を暗示することもある。
「月が涙を流したの。声は上げなかったけれど」
いつものように、わたしはお母さんに夢のことを話していた。
「じゃあ今夜は雨が降るわね。土嚢の準備をしなくっちゃ」
そう言って、お母さんは家を出て行った。
周りには、子どもの見た夢の話を聞いて、おおげさに驚いている大人がいる。
それが、垂珠たれじゅ寺院のいつもの風景なのだ。

 ある朝、窓から差し込む陽光で目を覚ます。網目状の窓から斜めに差し込む光が、わたしの首元を照らしている。
窓の外に目を見やると、湿ったせいか、土の色が濃くなっていた。
昨日夢で見た通り、雨が降ったのだろうか。
土の色は、遠くになればなるほど薄くなっている。
あとでお母さんに聞いたところによると、やっぱり雨が降ったらしい。
わたしのお陰で外で乾かしていた壺や染料に付けた織物が台無しにされずに済んだのだとか。

 みおと話をしようと広間に行くと、みおは、みおのお母さんと話していた。
「みお、最近夢は見るのかしら」
「うん………、最近あまり見なくなっちゃって。ここ二週間は見ていないかな」
「じゃあそろそろ頃合いかも知れないわね」
そんな会話が聞こえてきた。
わたしはみおに夢の話を聞かせようと声をかける。
「ごめんね。今はお母さんが来ているから」
みおはばつの悪そうな顔をしてそう言った。
みおのお母さんの方へ顔を向けると、少し怒った顔をしていた。
わたしはそれが怖くなって、その場を離れることにした。

 次の日の朝、みおのお母さんが植木鉢を持ってきた。
植えられているものは無憂樹というみたい。まだ花は咲いていない。
緑色のつぼみが窮屈そうに一箇所に寄せ集まっている。
本当はもっと大きな木になっているようだけれど、その一部を鉢に植えたのだとか。
「この花が咲いたらわたしはここを出て行かないといけない」
みおはそう言った。
「どうして?」
わたしが聞くと、みおは
「もう夢を見られなくなってしまうから」
と答えた。
わたしには意味がよくわからなかったけれど、みおの真剣な表情の前に、言葉を続けることができなくなった。

 次の日、つぼみは花になっていた。
お手玉のように色とりどりの小さな花が寄せ集まって丸い形を作っている。
みおはもうそこにはいなかった。
「あら、みおちゃんの花はもう咲いてしまったのね」
お母さんが花を見かけるとそうつぶやいた。
「お母さん、それってどういうこと?」
「子供はね、大人になる時期には、その子のお母さんが花、と言ってもまだ咲いていないつぼみの花を持ってくるのよ。その花が咲いたら、その子はもう大人になってしまうの」
「大人になったらどうなるの?」
「大人になってしまったら、この建物を出ていかなくちゃならない」
「どうして?」
「もう夢を見ることができなくなってしまうから」
どうして大人になると夢を見ることができなくなってしまうのか、わたしにはわからなかった。
「大人になると夢を見られなくなるというより、夢を見なくなることが大人になるということなのよ」
わたしがたずねると、お母さんはそう答えた。
「じゃあわたしはまだ大人になれないってこと?」
「かすみも夢をそろそろ見るのを止めたらどう? そしたらみおちゃんのようにここから出られるわよ」
お母さんにそう言われたけれど、わたしはまだ夢を見るのをやめられそうにはなかった。
けれども、みおに再び会いたいとも思った。
夢を見られなくなってしまうのは嫌だけれど、花を見つけたくなった。

2. 夢の残り香

 わたしは夢を見た。
森の奥深く、鬱蒼と生い茂る木々に覆われた場所で、不思議とよく光の当たる場所があった。
近づくと、そこには厚みを持った、みずみずしい桃色の花が咲いていた。
見たことのない花だった。
わたしはその周りでみおと遊んでいた。

 目を覚ます。
何が起きたのかぼんやりと思い出している。
そうだ。あの花。
あの花はわたしが垂珠たれじゅ寺院を出るために必要なもの。
どうして夢の時には摘まなかったのだろう?
悔やむ気持ちが生まれたけれど、夢から覚めてしまってはしかたない。
自分で探しに行かなくちゃ。
そう思ったわたしは垂珠たれじゅ寺院を飛び出した。
見張りの大人がいれば、わたしは連れ戻されてしまうけれど、運が良かったのか、
わたしは誰にも見つからずに出ることができた。
夢で見た場所がどこにあるのかはわからない。
ただ、お寺から見える山のどこかにはあるのだろうと思った。

 外は、お寺の中よりもずっとほこりっぽかった。
牛やヤギに見つめられると、何だか怖くなって走り出す。
後ろからお寺の大人が追いかけてくるんじゃないかと怖くて、振り向けなかった。
ただ、走る足だけを速めていく。
切り立った崖の上に、緑に覆われた森があった。
ここがお寺から見ていた山の入り口だろうと思った。
崖の周りをぐるぐると周って、やっと上に登れる場所を見つけた。

 山を上がって森のような場所に入ってみても、夢で見た光景は見つからなかった。
光が弱い。
その時はじめて、日が暮れ始めていることに気がついた。
そこから日が落ちるまでは早かった。
光を漏らす枝や葉っぱの隙間が、次々と閉じていく。
今から坂道を下って戻るよりは、ここにいようと思った。
何も見えない中で、ころばずに坂を下る自信はなかった。
ここで夜を明かしても、こわくないって、不思議とそう思えた。
季節は秋にさしかかったばかりで、少しひんやりとする程度。
決して寒くはない。
それでも、雨に降られるといけないので、わたしは木の根本にできた裂け目に体を入れて、眠ることにした。
辺りには虫たちの鳴き声がひびいていたけれど、眠りの妨げにはならなかった。

 木漏れ日の明かりで目を覚ます。
体を起こそうと木に手を触れると、少し湿っていた。
雨が降ったのかもしれない。
視界の開けた先には、夢で見た光景がそこにあった。
木々が窮屈そうにひしめく森の中に、不思議と光がはっきりと当たっている場所があった。
光が当たった先の土には、花があった。
夢で見たのとは違う形をしていたけれど、それはつぼみだからかもしれない。
きっと花が咲くと同じ形になるんだ。
そう思った。
わたしは根本の土をかきあげて、それを掘り出した。
これを家に持ち帰って、花になるのを見届ければ、わたしもみおと同じ大人になれるはずだって、そう思った。
帰りの山道は迷わなかった。
下る道を探していれば自然と、町へと近づいているのがわかった。
困ったのは、両手がふさがっていたから、険しい道を通るのがむずかしかったこと。
最初は両手で持っていたけれど、段々と片手で持つようになって、持ち方もぞんざいになった。

 ふもとに着く頃には、茎を握ってしまって少し潰れてしまったけれど、他のところには傷は見えない。
だいじょうぶ、そう自分に言い聞かせて私は垂珠たれじゅ寺院へと歩みを進めた。

 垂珠たれじゅ寺院に戻ると、出た時と違って見張りがいた。
わたしは急いで戻って、遠くから様子を見ていた。
見張りはしばらくすると、お寺の外から出ていって、左側の通りに進んでいった。
その通りに目を向けても、見張りはいない。
どこかへ行ってしまったのだろうか。
この間にお寺に走って入ってしまおう。
そう思った瞬間、誰かに肩をつかまれた。
驚いて振り向いてみると、見失った見張りの姿がそこにあった。
「どうして……」
わたしは弱々しくそんなことをつぶやくことしかできなかった。
見張りは険しい顔をしてわたしをにらんでいる。
「今までどこに行ってたんですか! ずっと探し回っていたんですよ!」
大きな声をあげられたわたしは、怖じて何も話すことができなくなってしまった。
辺りの注目を集めることを気にしたのか、見張りはわたしを垂珠たれじゅ寺院の片隅にある小部屋に連れて行った。
歩いて行く間に、少し心を落ち着けることができた。
そうだ。わたしは大事な花を取りに行っていたんだ。
まだつぼみだけれど。
大人になるための大事な花。
これを見せれば、勝手にいなくなったことを許してもらえるかもしれない。
「あの、これ、大人になるための花で……、その……」
「それはご両親からいただいたものですか?」
見張りは少し表情を和らげてそう言った。
「え……ちがくて……。わたしが山に取りに行って……」
そうわたしが言うと、見張りは元の険しい表情に戻って声を荒げた。
「花は、ご両親が見つけるものなのです。子供のあなたが見つけられるものじゃあないんです」
そう言って、見張りはわたしの持っていた花を取り上げてしまった。
「だめっ!」
わたしは取り返そうとしたものの、体の大きさにはあらがうことができなかった。
見張りは戸を閉めて、わたしを小部屋に閉じ込めた。
「ご両親がこちらにいらしたら叱ってもらいます。それまでそこにいなさい」
その声だけが冷たく響いて、わたしは暗い小部屋に残されることになった。
花を返してもらわないと大人になれないのに……。
そう不安に思ったわたしは最初は石の戸を何度も叩いていたけれど、やがて叩きつけたところの手がひりひりと痛みだして、その場にうずくまることしかできなくなった。
花がいじめられていると思うと、胸が苦しくなり、息の調子を整えることが難しくなった。
流れる涙を拭くこともできずに、打ちひしがれていると、やがて、遠くからわたしの名前を呼ぶ声が聞こえた。
顔を上げずにうずくまっていると、光が部屋に染み込んできた。
「かすみ」
今度ははっきりとわたしの名前が聞こえた。
お母さんの声だ。
怒っているのだろうと思っていたけれども、その声はやわらかい。
顔を上げると、怯えるように不安そうな表情を浮かべていた。
その時わたしははじめてごめんなさいと思う気持ちになった。
「どうして黙って出ていったの? それも一晩帰ってこないなんて……」
「えとね、夢を見たから……」
「夢?」
「うん、山の中に入って花を見つける夢」
「花を見つけるのは母親の仕事だって言ったでしょう!? どうして一人で行こうとしたの?」
「……ごめんなさい」
声を荒げるお母さんの前にわたしはうなだれることしかできなかった。
お母さんは怒らないと思っていたのに、そうではなかった。
わけを話せばわかってもらえるだろうと思っていたのに。
わたしが花を見つけたと言っても、お母さんは、花は大人が見つけるものなんだと言って聞かない。
わたしの花をどこへやったのかも教えてくれない。
不安になって探しに行こうとしたけれど、お母さんはわたしを行かせてくれない。
長い間お母さんはわたしに同じ話を聞かせた。まだお昼のはずだけれど、外は雨雲におおわれて暗かった。
「どこを見てるの? ちゃんとこっちを見て話を聞きなさい」
花がどこに行ったのかが不安で、よそ見をしているわたしに、お母さんはそう言った。
ここは素直に言うことを聞くふりをして、放してもらおうか、そう思った。
「ごめんなさい」
「わかってくれたのね。じゃあもうこんなことはしないって誓える?」
「うん」
わたしの答えに満足したのか、お母さんは安心のため息をついた。
「花はね、夢を見なくなってから持ってくるものなの。夢を見る内はまだ持ってきちゃだめよ。花が欲しかったら夢を見ないよう努力なさい」
お母さんは夢を見ることをやめさせようとしていた。わたしはそれに返事をしたくなかった。うなずくかのように、曖昧に首を前に傾けることだけをした。
「厠に行ってくる」
わたしはその場から離れる口実を探すかのように、そう言い残して花を探しに行った。
部屋を出た後、厠とは違う方向に歩きだしてしまったけれど、お母さんはそれをとがめなかった。
見ていなかったのかもしれない。

 花は、壺をこねる泥に埋まって捨てられていた。
わたしはそれを救い出して、枯れた井戸の、レンガの欠けたところにある隙間に花を植えた。
ここに置けば誰にも見つからないだろうと思って。

 最初の内は、不安になって、日に何回も見に行ってしまった。
花はまだ咲かない。
春にならないと咲かないのだろうか?

 そのあとしばらくしても、わたしは夢を見続けていた。
お母さんは毎日夢を見なくなったかを尋ねにやってきた。
まだ夢を見ていると言うと、お母さんは不機嫌そうな顔になった。
そういった日が続いている内に、たまたま夢を見ない日があった。
すると、その日のうちにお母さんが花を持ってきた。
けれどもそれは、わたしが夢で見たものとは全然違っていた。
わたしはこのまま大人にされてしまうんだろうか。
「つぼみが膨らんでいるわ。明日には花が咲くでしょうね」
お母さんはそう言った。
けれども次の日もその次の日も花は咲かなかった。
つぼみは石のように硬くうなだれていて、開くことをこばんでいるかのようだった。
「今日も咲かないの?」
お母さんは残念そうに言った。
けれどもわたしには咲いてくれない方が嬉しかった。
お母さんが持ってきた花より、夢で見た花の方がわたしらしいと思った。
井戸のそばに植えた花のことを話そうと思ったけれど、見張りの時のように捨てられるのが怖かった。
咲いたあとなら認めてくれるだろうと思って、咲くのをただ待っていた。
けれども井戸の花も咲くことはなかった。

 次の日もお母さんが花を持ってきた。
しかし、その花も咲くことはなかった。
お母さんは次第に怒り始めた。
「かすみ、あなたが夢を見るのをやめないから、花が咲かないのよ」
お母さんはそう言った。
「どうして夢を見るのをやめないといけないの? お母さんだって昔はわたしの夢を喜んでくれたじゃない」
お母さんはしばらくの間黙っていたけれど、やがて観念したかのように息を吐いて、こう言った。
「あのね、夢というのは本当のことじゃないの。だから大人になるためには夢のことは忘れないといけないのよ」
冷水で打たれたかのような衝撃が走った。夢が本当じゃない?
「え……? だってお母さん、わたしが夢で見たことを信じていたじゃない。月が泣いたら雨が降るって……」
「それは子どもたちが喜ぶからそうしているだけなの。本当は夢で起きたことなんて信じていないのよ」
「うそ……」
「本当よ」
お母さんはいつになく真剣な眼差しでわたしを見つめていた。
わたしは怖くなってその目を見つめることができなくなった。
涙がたまって、目の前の景色がぼやけた。
その後のお母さんの言葉も頭に入ってこなくなる。

 いつの間にか夜になっていた。
食事はほとんどのどを通らなかった。
それでも、空腹を感じることはなかった。
目は冴えて、月夜に照らされた天井の模様をじっと見つめていた。
そうして、わたしは今まで見てきた夢のことを思い返していた。
とりわけ鮮やかに浮かんだのは、花を見つける夢だった。
あの時わたしは夢の中で、森の陰の中で一箇所だけ照らされる明りを見た。
その下には花が咲いていた。
その次の日、わたしは山に行って同じ景色を見た。
そこには確かに花があったのだ。
だからわたしには夢が本当ではないとは思えなかった。
あれは本当のことなのだ。
夢は、わたしに現実で気づけないことを教えてくれるのだ……。

3. 目覚め

 その日、わたしは夢を見た。
見知った顔の人たちが、目をつむって手を合わせていた。
その中には、鏡でしか見たことのない、わたしの顔もあった。
わたしも同じように目をつむっている。
ふと、それぞれの人たちの額のところに、金色の光が見える。
なかには、その光がない人たちもいて、あるかないかは人によって違っていた。
よく見てみると、大人の額には光がなく、子どもの額には光があるように見えた。
そしてわたしの額にも光があった。
そして、その光は次第に大きくなっていって、わたし以外の大人たちを包んでいった。

 目が覚めた。
日は既に昇りかけていて、部屋の中でも灯りがいらないくらいには明るくなっている。
垂珠たれじゅ寺院のみんなはまだ寝静まっている時間。
わたしは、頭が冴えてしまったので、井戸まで行って顔を洗った。
髪を整えようと思ったけれど、鏡の置いてある部屋には鍵がかけられていた。
仕方がないので、手の感触だけで髪を整えると、そのまま日の光を浴びに、外に出た。
垂珠たれじゅ寺院の外を散歩してみると、すれ違う人々がわたしの顔を見て、目を見開いて驚いていた。
妙なことだと思った。
わたしはそんなに変な格好をしているんだろうか。
確かに今朝は鏡を一度も見ずに外に出てきてしまったけれど。
不安になって再び頭を触って、髪の形を確認する。
触った限りではどこも変な風には見えない。
服装も、多少色が鮮やかであるとはいえ、赤一色に染められた二枚の肌着だ。
他のみんなと変わるところはない。
「なぁ、あんた……もしや夢に出てきたあの子なのか……?」
通りすがった、白髪混じりのおじさんがわたしに話しかけた。
語りかける言葉、向けられた眼差しは真剣そのものだった。
「夢?」
「そうだ。昨夜、夢を見たんだ。みんなが大勢祈っている夢を。その中であんたから出た光がみんなを覆い尽くしたんだ」
「!?」
その夢は昨日、わたしも見た夢だった。
この人はわたしと同じ夢を見ている?
「俺だけじゃない。俺の息子も嫁も、隣の内に住んでいるやつもみんな同じ夢を見た」
「わたしも見た」
「俺もだ」
その言葉に応じて、辺りの人たちもわたしに話しかけてくる。
これは一体どういうことだろう。
みんなが同じ夢を見るなんて。そしてその夢の主役はわたしだったのだ。
わたしをすごい人だとみなして、拝み始める人もでてきた。
でもわたしには夢の意味がよくわかっていない。
あれがすごいことだったのかどうか。
あれが何を意味していたのか。
これから何か良いことが起きるのだろうか。
それがわかるまで、わたしはたとえ褒められていても、苦笑いすることしかできなかった。
「どこにお住まいなのですか?」
垂珠たれじゅ寺院に……」
住まいを聞かれたので、垂珠たれじゅ寺院の名前を出す。
垂珠たれじゅ寺院? あそこは、子供達を押し込める場所ではないですか。わたしたちのお寺にお越しください。丁重におもてなししましょう」
わたしはその人たちに連れられて別のお寺に案内された。
わたしはちょっとだけそこのお寺を見学するつもりだったのに、いつのまにか、寝台や椅子までもが用意された。
「今日からはここにお住みください」
「え、でもわたし荷物を垂珠たれじゅ寺院においてきちゃったし……」
「使いのものに取りに行かせましょう」
「それにお寺の人にも、お母さんにも連絡しないといけないし……」
「それも使いのものにさせましょう。御心配なさらずに」
わたしの首には、色とりどりの花が付けられた首飾りや、くるみでできた数珠がかけられた。
額に朱の模様を入れられ、蓮の葉や花をかたどった金の刺繍が縫われた衣を着させられた。
わたしは降りるのが怖いくらい高い椅子に座らされた。
わたしを囲う人たちは手を合わせて祈るように目をつむった。
「かすみ様、どうか我らをお救いください。今この町には、病がはびこっています」
一番前にいた白髪のおばあさんにそんなことを言われてしまった。
そんなことはできない、そう言おうとしていたけれど、おばあさんの真剣な、すがるような表情に気圧されて、
それを口にすることができなかった。
わたしが不安そうに何も言わないでいると、周りにいた人たちは次第に去っていった。
その後、わたしは高い椅子から降ろされて寝台へと案内された。
わたしが何もできないということを知ると、あの人たちはわたしをどうするだろう?
このお寺から追い出してしまうだろうか?
垂珠たれじゅ寺院に戻ったら、黙って出ていったことをまた怒られてしまうんじゃあないか。
でも、今回はわたしのせいじゃないし、仕方ないよね。
わたしは寝台の横についてある窓から月をながめながら、そんなことを考えていた。
やがて窓から月が見えなくなると、そっと目を閉じた。

 町には黒い霧がかかっていた。
わたしはどこかの山の上からその様子を眺めている。
両手をついて、山の坂をくだっていく。
自分が自分じゃないみたいに速く走って行けた。
わたしは自分の脚が遅いと思っていたけどそうじゃなかったんだ。
両手をついて、犬や山羊みたいに、四足で走ればずっと速く走れる。
黒く覆われた町へと足を運んでいく。
恐れはなかった。
町の中心には、灰色のねずみがいた。
これが霧を発しているのだろうと思った。
わたしはものすごい速さで追ったけれど、ねずみは路地のすきまに入り込んでなかなか出てこない。
追っている途中に、扉にぶつかったり、屋根から転げ落ちたりしていると、ねずみは町の外へと出ていった。
わたしはそれ以上追う気がなくなった。
町の方へ振り返ると、町を包んでいた黒い霧は晴れていた。

 翌日、部屋の戸を叩く音で目が覚めた。
「かすみ様、起きていらっしゃいますか?」
「今起きた」
ねむけまなこを手の甲でこすりながら、わたしはそう言った。
「皆がお告げの夢を見たと言っております。お話を聞いてもらっても良いでしょうか?」
「うん」
すると、女中らしき人が部屋に入ってきて、わたしの世話をしはじめた。
顔を洗うための、平たくて広いたらいを差し出し、それが終わると、油を塗ってくしを通して、わたしの髪を整え始めた。
赤や黄色の花飾り、くるみの数珠を首にかけ、最後に額に印を描いた。
女中に連れられて、部屋に入ると、何人もの人たちがそこには集まっている。
部屋には白檀の香りが充満していて、灯りの炎が辺りをゆらめかせていた。
わたしは再び、昨日登った高い椅子の上に座るよううながされた。
「かすみ様、昨日わたしたちは再び同じ夢を見ました。その夢の中では猫になったかすみ様が町から黒い霧を振り払ってくださったのです」
「え!?」
それを聞いてわたしは驚きの声を上げていた。
その夢は確かわたしもの見たものだった。
自分が猫になったとは思わなかったけれど、四足になって地面をかけていたのだ。
「そこでわたしたちはこう考えました。猫こそが救世主であり、疫病の主であるねずみを追い払うことで、わたしたちの町から病を除いてくれたのだと」
そうなのだろうか。そこまでの考えはわたしにはなかった。
けれども、それを言う人たちの顔つきがあまりにも真剣だったので、違うという気持ちにもなれなかった。

 それからのわたしは見たい夢をみんなに見せられるようになった。
派手な服を着て、空を飛ぶ夢を見たときはみんなも同じ夢を見る。
顔だけが虫になってしまったこともある。
わたしはいやがっていたけれど、周りの子どもたちがうれしそうにしているから、わたしもこれでいいと思うようになった。
起きて鏡を見た時は、もちろん元の人の顔になっていた。
自分の夢を見せることは最初は恥ずかしかった。
心をのぞかれているような感じがしたのだ。
けれども、みんながありがたがってくれるから、次第に気にならなくなった。
けれどもどうしてみんながわたしの夢を見るようになったのかはわからない。
何故かこの前から、わたしの見る夢をみんなも見るようになったのだ。
わたしが夢を見ない日は、みんなは別々の夢を見る。
こういうことが何度かあると、やっぱりわたしが夢を見せているのだという気持ちになった。
けれどもわたしが力を出せるのは夢を見ている時、つまり寝ている時だけで、それ以外は手持ち無沙汰だ。
わたしは女中に頼んで、夢で見たことを砂絵に描いたり、歌に歌ったりした。
みんなはそれをひとつひとつありがたがるものだから、わたしも嬉しくなってそのことだけをし続けた。

 いつものように、高い椅子の上に座って、お寺の人々を見下ろしていると、小さな女の子と、それに寄り添う母親らしき女の人がいた。
女の子は、母親の裾をつかんでいた。
それに気づいた母親は、女の子に手を合わせて祈るようたしなめていた。
その様子を見ていたわたしはお母さんに会いたくなった。
ここに連れられてから一度も会っていない。
それどころか、外に出ることすら許されていないのだ。

「ねえ、わたし、垂珠たれじゅ寺院に戻っていい?」
わたしは女中にたずねた。
わたしがここにいることが、お母さんに伝わってるのか心配だったのだ。
「いけません。あそこに戻っては。あそこは子供から夢を刈り取る恐ろしい場所です」
垂珠たれじゅ寺院を知っているの?」
「もちろん、わたしも昔そこにおりましたから」
「そうなの!?」
「そうですとも。いえ、わたしだけではありません。ここにいる者たちはほとんどがそうでございます」
「知らなかった……」
「あの場所では大人が夢を見ることが許されていません。子供達はその圧力に屈して夢を見るのをやめてしまうのです。私たちはそういった方たちを救いたいと思っています」
「だからわたしを連れてきたの?」
「それは違います。かすみ様は夢を見続けているだけではなく、人に夢を見させられる能力を有しています。それは単に夢を見るだけの人間より高位の存在です」
そう言われると少し嬉しくなった。垂珠たれじゅ寺院では夢を見ることがいけないことだと言われ続けてきたから。
お母さんに会えないのは少し寂しいけれど……。

 わたしはいつものように、高い椅子の上に座って、お話をしていた。
ふと、見下ろした人々の中にお母さんがいたことに気がついた。
声をあげようとして、口を空けた瞬間、お母さんは合図をした。
わたしに静かにするように、といつも言っていた時の合図を。
そうだ、みんながいる前でお母さんだけ特別扱いするわけにはいかない。
後で二人になった時に話をすれば良いのだ。
お母さんはわたしの話をうれしそうに聞いている。
わたしがいつまでも夢を見ていたことを嫌っていたお母さんだけれど、今はわたしのことを認めてくれているに違いない。
みんなに夢を見せられるようになったのだから。

 部屋の天井を見つめている。
辺りはまだ朝日も出ておらず、かろうじて部屋の輪郭が見えるほどの明るさしかない。
お母さんはどこにいるのだろうか。
頭がはっきりしてくると、さっき見たのが夢だったことに気がついた。
お母さんはこのお寺にはいない。
念の為、お寺の掃除をしている女中にその話をしてみる。
「ねぇ、わたしのお母さん来た?」
「いえ、いらしていませんが……」
女中は、わたしの突然の言葉を不思議がっていた。
「じゃあやっぱり夢だったんだ」
「夢? どのような夢でしたか?」
女中は急に興味を持ったかのような口調で言った。
「えとね、わたしが高い椅子に登っている時、お母さんもいたの。そこでうれしそうにわたしの話を聞いていたんだ」
「そうでしたか……。そういった夢をご覧になったのでしたら、現実でもそうなるのでしょう。お母様を呼びに使いのものを差し向けましょう」
「ほんと!?」
「ええ、もちろん」
女中は笑顔になった。
これまで、お母さんに会いたいと言ってもあまりいい顔をしなかったのに、夢の話をした途端に、すんなりと受け入れた。
「外に出ても良いってこと?」
「お母様にお会いになったのは、お寺の中でしたか?」
「うん、高い椅子の上だからね」
「それでしたら、このお寺の中でお会いになると良いでしょう」
「外に出るのは駄目ってこと?」
「それはいけません。夢はそうなっていないのでしょう?」
女中はそう言った。
夢でも外に出ていないとだめみたいだ。
外で会ったと嘘を言おうかなと、一瞬思ったけれども、もう遅かった。
それに嘘を言うのはなんとなく気がひけた。
この人たちはわたしの夢を本気で信じてくれているのだから。

4. 開花

 次の日、女中の人がお母さんを連れてきた。
お母さんはわたしが偉くなったのを喜ぶかと思っていた。
けれども、実際には怯えたような顔つきをしていた。
それを見たわたしの顔からも笑顔が消えて、不安を感じるようになった。
「お母さん、久しぶり」
「えぇ、久しぶりね」
お母さんは傍にいた女中をしきりに気にしていた。彼女がいるから話ができないのではないかとわたしは察した。
「ねぇ、ちょっと部屋の外にいてもらってもいい?」
わたしがそう言うと、女中は少しの間いぶかしげな顔をしていたけれど、何も言わずにひるがえって部屋を後にした。
部屋にはわたしとお母さんだけが残る。
「お母さん、わたしの夢はどうだった?」
夢を見せられるようになったわたしは当然お母さんもそれを見ているだろうと思ってそう言った。
「夢……? 見ていないわよ。夢なんて……」
お母さんは目を背けながらそう言った。
「見ていないの? わたしはみんなに夢を見せられるようになったんじゃあなかったの?」
「みんなですって? そんなはず無いでしょう。たしかに大人でも見るようになった人はいるみたいだけれど、それは一部の人たちなのよ。ほとんどの人は夢なんて見ずに暮らしているわ。夢なんてまぼろしなのだから」
わたしは驚いて、お母さんの話を聞いていた。
夢を見ているのが一部の人たちだけなんて、このお寺の中にいたら気づけないことだった。
わたしは町の人たちがみんな見ていると思っていたのに。
「あなた、このお寺の人たちがどう思われているか知ってる? 人間には三つの階級がある。夢を見ない人々が最上で、夢を見ていても信じていない、気休めとしてみている人が二番目。一番下は夢を現実だと思っている人たち。そう呼ばれているのよ」
「そんなはずないよ。だってここの人たちはこんなに楽しそうに暮らしているのに、一番下だなんて」
「楽しんでいる。それがいけないのよ。仕事もせずに夢に耽るなんて」
たしかにわたしは山羊の乳を絞ることも、稲を刈ることもしていない。
ただ、高い椅子に座って、絵を描いたり歌を歌ったりしているだけだ。
わたしが何も言い返せずにいると、部屋の外が騒がしくなった。
「この女はかすみ様をたぶらかそうとしているぞ!」
声が張り上げられると同時に、戸が開けられ何人もの人たちが入ってきた。お母さんを取り囲み、腕を引っ張ったりしている。
「お母さんをいじめないで!」
わたしがそう叫ぶと、人々は手を放して、お母さんにお寺から出て行くよう誘導した。
お母さんはここに来た時と同じ、おびえた表情をして、部屋を出ていった。
お母さんに言われた言葉も、最後の表情も、わたしの心を痛めた。
今度こそ夢が本当なんだって、お母さんに伝えられると思ったのに。
あんな別れ方をしてしまっては、もうわかりあえる日は来ないのかもしれない。

 お母さんが部屋を出てからしばらくすると、女中が部屋に入ってきて、他の人たちを追い出した。
顔つきは憮然としていた。
「かすみ様。今この町には三種類の人間がいます。夢を信じる者と、夢を見られるけれども信じない者。そして夢を見られない者です。そして人間としての階級もそのとおりです。勿論夢を信じる者が一番上です。その次が、見られるけれども信じない者たち。夢を見られない者たちは一番下等なのです。失礼ながらあなたの母上は世の中の理に疎い者に属するようです」
人間には三種類いる。それはお母さんが言ったことと同じだった。
けれども、その偉さについては、全く逆のことを言っていた。
一体何が本当なんだろうか。
外の人たちはわたしのことをどう思っているのだろうか。
直接聞いてみたいと思った。
でも、ここの人たちはわたしを外に出してくれないだろうな。そんなふうに思っていた。

 夢を見た。
それは垂珠たれじゅ寺院にいたときに子どもたちが見ていたような夢だった。
「女神さま」があらわれて、大人の真似事をする夢だった。
わたしは起きた後、それが懐かしくなって少し涙ぐんだ。
けれども、これはわたしの夢じゃあないとも思った。
自分の夢じゃない夢を見るのは、久しぶりのことだった。
その話を誰かにしようとお寺を歩き回っていると、女中に話しかけられた。
「今司祭様がこちらのお寺にいらっしゃいます。かすみ様もお会いになると良いでしょう」
「司祭様って?」
「かすみ様と同じく、他人に夢を見せる能力を持った人たちですよ」
「わたしの他にも夢を見せられる人がいるんだ」
「ええ、おりますとも。ただ、その力はかすみ様より……いえ、どんな夢を見せられるかは司祭様にお聞きになると良いでしょう」
「あ、もしかしてわたしが昨日見た夢は見せられた夢なのかな?」
「ええそうです」
「あれ、でもそしたら女中さんも見ていないとおかしいよね」
「いえ、わたしは見られないのです。司祭様とは言え、全ての人に夢を見させられるわけではありません。力の強い司祭ほど夢の範囲が広くなります」
ということはわたしは力の強い司祭なのだろうか。
「夢を見やすいのは若い子たちです。年齢が低いほど夢を見やすくなります。年寄りに夢を見させられる司祭の力は強力です」
そう女中が付け加えた。

 次の日、女中が寝室までやってきた。
「かすみ様、司祭様がやって参りました」
わたしは身だしなみを整えて、司祭の待つ部屋まで赴くことになった。
戸を開けると、お父さんくらいの年の人が座敷に座っていた。
この人が司祭なのだろう。
後ろに色鮮やかな刺繍が施された椅子があったけれども、それには誰も座っていない。
わたしは、司祭の対面に座るよう促された。
「さて、新しい司祭がいると聞いていたけれども、随分小さなお嬢さんだね」
尊大な人だと予想していたけれど、随分と物腰はやわらかそうだった。
「その力は私よりも上だと聞く」
やっぱりそうなんだ。うっすらと気付いてはいたけどこうもはっきりと言われるとは思わなかった。
少しの間沈黙が起こる。
わたしは言うべきことを言っていないことに気づき、あわてて口を開く。
「あの、わたし、仙道かすみって言います。この前、ここに連れてこられたばかりで……ええと、無理やり連れられてきたってわけじゃなくて、いや、無理やりだったんだけど、来たら来たで割と居心地が良かったというか……」
考えるままに話していたら、何度も言い直すことになってしまった。
「無理やり連れてこられた? それはいかんなあ。後で女中に言い聞かせておこう」
そう司祭は言った。
わたしは女中の言いなりなのに、この人は女中に言うことを聞かせられるのだ。
司祭としての力はわたしの方が上だと言っても、立場としては随分と下なのだ。
「それにしても、お前さんは大人にも夢を見せられるというね。私の若い頃は夢を見せられる相手は子供と決まっていた。今も私の描く夢を見るのはほとんどが子供だ」
それを聞いて、はっとした。
「もしかして、垂珠たれじゅ寺院で決まった曜日に子どもたちが夢を見ていたのって……」
「そう、私たち司祭の力だ。あそこに住んでいる大人たちはそれをわかっているのだ。昔、大人たちに夢を見せようと試みた者がいたそうだが、反発を受けてしまった。それ以来子供だけに夢を見せるようにしていたら、自然と能力が落ちてしまい、もはや我々は大人に夢を見せることができなくなった」
このことはわたしにとって大きな衝撃だった。
わたしが呆然としているままに、司祭の人は話を続けていく。
垂珠たれじゅ寺院で夢を見るのは子供達だけだろう。大人たちにも夢を見せられるあなたの力は稀有なものだ。普通はそういったことはできないんだからね。もっとも昔は、全ての人たちが夢を見ていたらしいが。司祭の力も絶大だった。戦が終わり、貧困がなくなった後は司祭も力を失うようになったのだ。人々が物語を必要としなくなったのかもしれない」
「司祭様は夢を信じていないの?」
「昔は信じていたがね。今はどうだかわからん。全く信じていないわけでもないが。本当かどうか確かめる気力がなくなったというのが正しいかもしれない。それよりも、ここのお寺の人たちが夢を求めているというのを気にしているよ。あるいはそれが大人になるということなのかもしれないが」
司祭の話はわたしにとって衝撃的な話ばかりだった。
色々な事実が、わたしの頭中で窮屈に暴れまわって、何も考えられなくなった。
「すまない。まだ若い君にこんなことを言うのは酷だったかもしれない。だが君ならば、再び夢の地位を高められると思ったのだ。今、夢の地位は低い。子供の暇つぶしにしか思われていないのだ。君のお陰で夢を見るようになった大人もいるが、そういった人たちでさえ、後ろめたさからこそこそと夢を楽しんでいる始末なのだ」
「わたし、このお寺の外の人たちが夢をどう思っているのかしらないの。女中さんが外に出してくれなくて」
お母さんに唯一聞いたことがあるくらいだ。そう思ったけれどそれは口に出さずにおく。
「そうか。ならば私から注意しておこう。夢がどう思われているか知ると良い」
あっさりと外出が許可された。けれども司祭の言っていたことが本当だとすれば、外に出てそれを知るのは覚悟のいることのような気がした。
垂珠たれじゅ寺院は今どうなっているのか。
お母さんはどうしているだろうか。
司祭が町に帰ってしまうと、女中は言い分を変えて外出を禁止してしまうかもしれない。
そう思うと早い内に行っておくのが良い気がした。
わたしは、花飾りや刺繍がほどこされた派手な衣装から着替えることにした。
一番目立たない地味なものは、赤一色の毛糸でできた服だった。
これも色合いは派手だったけれども、ほかに服がないので仕方なくそれを着て外に出ることにした。
このお寺は町の隅にあった。
外には見慣れない景色が広がっていて、女中に場所を教えてもらっていなければどこにもいけなかっただろうと思った。
太陽の登る方向に垂珠たれじゅ寺院があると聞いていたので、その方角を目指して歩くことにした。
そんなに遠くはないはずだけれど、歩みを進めても垂珠たれじゅ寺院は見えなかった。
「かすみ、かすみ?」
足早に坂道を歩いていると、わたしの名前を呼ぶ声が聞こえた。
振り返って見ると、昔仲の良かった人の顔がそこにあった。
みおだ。どうやら、子ども向けのおもちゃを売る屋台の店番をしているようだ。
「みお!」
「かすみ、久しぶりじゃない。もう垂珠たれじゅ寺院は出たの?」
「うん……出たといえば出たかな」
正しい手順で出たわけではなかったのでなんとなく歯切れの悪い回答をしてしまう。
「花は見つかったの?」
「うん、見つけたよ」
結局咲かなかったのだけれど。その言葉を口に出さずにのみこんだ。今あの花はどうしているだろうか。
「見つけた? お母さんが見つけてくれたんじゃあなくて?」
「うん、わたしが自分で見つけたんだ」
「へぇ、そういうのもアリなんだ」
「アリ………、うーん、わたしがはじめてだったのかも」
「そうなんだ。今あたしはここで店番してるの。あなたはどこで働いているの?」
「わたしは………お寺にいて………」
お母さんに言われたこともあって、わたしは自信を持って言うことができなかった。
夢を見せたり、絵を描いたりすること、それは仕事じゃない。そうお母さんは言ったのだ。
「お寺? どこの?」
みおは不安げな面持ちで聞いてくる。
みおの口調は昔と変わっていた。昔はもう少し落ち着いた話し方をしていたのに、今は歯切れよくはきはきと喋っている。
「あっちかな?」
そう言ってわたしは元来た方向を指差した。
「それってもしかして、新しい司祭が生まれたって言われてるところ?」
「うん………そうなの」
ごまかすわけにもいかず、わたしは素直に認めた。自分がその司祭だとは言えなかったけれど。
「良いなぁ。最近、その人が見せる夢が面白いんだよね。あんまりおおっぴらには言えないけど」
「どうしておおっぴらには言えないの?」
「そりゃあ、大人になって夢を見てるってのは恥ずかしいことだからね」
みおはお母さんと同じことを言っていた。大人は夢を見るべきじゃあないのだと。
「そうなのね……」
「かすみはまだ夢を見てるの?」
「見てるよ。でも、恥ずかしいことだとは思わない」
わたしがはっきりと言ったせいか、みおは驚いていた。
「そう……、夢を見ているのによく垂珠たれじゅ寺院を出られたね。あたしは一旦見なくなっちゃったんだ。あの新しい司祭が再び夢を見せてくれるまでは」
わたしは自分がその司祭だと白状しようかためらった。
「あのね、実はわたしがその司祭なの」
「えっ?」
みおはさっきよりもさらに驚いた。はずみで声を上げてしまうくらいには。
そして、辺りを気にするように見回した後、
「奥に入って」
と小声で告げた。
連れられて奥に入ると、こじんまりとした住居があった。
壁は煉瓦がむき出しになっていて、塗装されていなかった。
床に敷かれた布の間には砂地が見えて、垂珠たれじゅ寺院と比べても、今いるお寺と比べても、貧相に見えた。
わたしが興味深げに部屋を眺めているのを意に介さずに、みおは言った。
「ねぇ、さっき言ったこと、本当?」
「うん、本当だよ」
「そうなんだ。どうやって夢を見せられるようになったの?」
「わたしにもよくわからない。ある日突然そうなっていたの。あの夢を見た日、みんなが何かに祈っていて、わたしだけが光に包まれる夢を見て以来」
「あぁ、あの夢、でも光に包まれれていたのがかすみだって、あたしにはわからなかった」
「ちゃんと顔を見た人もいるらしくて………、その人たちがわたしを今いるお寺に連れて行ったの」
「そうなんだ。あたしは好きだよ。かすみの夢」
昔の友達がほめてくれた、そのことでわたしの胸は感激であふれた。
「本当?」
「もちろん」
「またここに来ても良い?」
わたしがそうたずねると、みおはつとにうろたえはじめた。
「ええっと、さっき言ったけど、大人が夢を見ることはあまり良いこととはされていないんだ。だから、かすみがここに来ていることがわかったら、あたしが白い目で見られちゃうかも」
「………」
わたしはみおの言葉に、ふいに悲しくなってうつむいていた。
「ごめんね。でもあたしに子どもが産まれたら、もっと堂々と会えるようになるよ」
そう言ってみおはお腹をかるく撫でた。それはかすかに膨らんでいるかのように見えた。
「みお、今、いるの?」
「うん、まだ先だけれどね」
「すごい! お祝いしなくちゃ」
わたしは喜びの声を上げた。
けれども、同時にみおが遠くに行ってしまったかのような寂しさを感じた。
「子どもなら堂々と夢を見られるからね。かすみの夢は少し大人向けだと思うけど、きっと子どもでも気に入ってくれるものだと思うよ」
「子どもなら夢を見られるんだ」
「うん、垂珠たれじゅ寺院にいた時もそうだったじゃない」
「そうだけど………、子どもは見たほうがよくて、大人はだめなんて何でだろうと思ったの」
「そりゃあ、大人になったら生活しなきゃいけないからね。夢のことにかまけていられないってことでしょ、あぁ、あたしが思っているんじゃなくて、世間の大人たちがそう思ってるんじゃないってことね」
わたしが悲しげな表情をしたせいか、みおは慌てて付け加えていた。
みおは夢を楽しんではいるようだけれど、それを現実とは思っていない。
日々の生活の合間にある息抜きのようなものと考えている。それで良いんだろうか。
今、わたしのいるお寺ではみんなが夢を褒め称えてくれている。
だからわたしも自信が持てていた。
けれども、みおや司祭やお母さんの話を聞いている内にどうも自信が持てなくなっていた。
わたしは気付いたらお寺に戻っていた。
元々垂珠たれじゅ寺院に行くつもりだったことはすっかり忘れていた。
思い出した頃には、再び外に出る元気は失っていた。
外で出会ったみおは、夢を見ることを後ろめたく思っているようだった。
あの時、わたしがお母さんに言われたことと同じだった。
それを聞いて、わたしは夢を信じられなくなってしまった。
それでも、わたしはお寺のみんなのために夢を見せないといけない。
それが彼らの拠り所なのだから。

 それからしばらく経つと、自分の夢に対する態度が変わっていることに気がついた。
ここに来た頃は、わたしは自分が感じるままに夢を作っていた。
今はお寺の人たちがどう思うか、どうしたら喜んでいるかを気にして、夢を見せるようにしている。
どちらがいいのかはわからなかったけれど、わたしは昔のように生き生きと夢を見せることができなくなっていた。
気が晴れなくて、みおの様子を見に行こうと思った。
彼女は慌ただしく店に来たお客の対応をしていた。
わたしは邪魔をしたらまずいと思って身を隠してしまう。
お寺に帰る途中、気がつくと垂珠たれじゅ寺院の前に来ていた。
中をのぞくと、小さな子どもたちが騒いでいる。
きっと、今朝見た夢の話をしているのだろう。
本堂の傍に井戸を見つけた。
そうだ、この前ここの枯れた井戸のところに、わたしは花を植えたのだ。
夢で見た花を。
わたしが垂珠たれじゅ寺院を去った頃、この花はまだつぼみだった。
今、それは咲いていた。
けれどもそれは、自分から咲いたというよりも、温かい季節に無理矢理咲かせられたかのようだった。